2016年6月4日土曜日

小松左京の空襲体験


 小松左京 『やぶれかぶれ青春記』 旺文社文庫 1975年刊 

69年『螢雪時代』連載。2年ほど前に当ブログで紹介した。空襲場面は兵庫の工場と西宮の自宅。
 1945(昭和20)年、小松は神戸一中3年生。これまで農作業、疎開家屋取り壊し、高射砲陣地づくりなどに動員されていたが、次は工場。週1回だった空襲が、次第にふえ、毎日になり、日に3回の日もあった。4月からの予定が5月末になった。動員先は造船所、空襲で破壊されている建物があり、熱気とホコリと騒音。既に45年生も働いていた。
《そんな工場へ、連夜の空襲で寝不足と疲労でフラフラになり、一日わずか五勺の外米と、虫クイ大豆や虫食いトウモロコシ、ドングリの粉などで、すっかりやせおとろえ、おまけに消化の悪い煎り豆を食べては水をのむので、大半がピイピイ腹下しでフラフラの私たち三年生が到着した。》
 支給される弁当が唯一の楽しみ。昼飯前に空襲警報が鳴ることがある。「すきっ腹でもつれる脚をひきずって大急ぎでとび出して行く」。避難場所は2キロ北の山。
《たいていは目的地につくまでに、カンカン、カンと、非常退避の半鐘がなり出し、青く焼けただれた空の底が、うんうん唸り出す。と、――私たちがかつて砂をはこんだ陣地の高射砲が、ドカン、ドカンと、すきっぱらをゆするような音をたてはじめるのだった。しばらくして、ザァーッと空をゆすりあげるような音が頭上をおおう。絨緞爆撃でいっせいに投下される、何千本もの焼夷弾、爆弾が空気を切る音なのだ。ふってくる焼夷弾が、空にまかれた千万の針のようにキラキラ光ってみえる。思うまもなく、ポンポン、パンパン、あたりは破裂音につつまれ、合い間にドスン、ドスンと、これは半トン、一トンの爆弾で、これが爆発したときは、青い大気の中を、池の面を走る波紋のように、衝撃波が、水紋よりももっと早く雲をゆすってパッと空にひろがってゆくのが見えた。衝撃波が眼に見えるということを、そのとき知った。》
 空襲が終われば、また工場に帰らなければならない。工場が焼けて、「しめた!」と叫んでしまった級友が、職工頭に鉄パイプで殴られた。
《まったく、その焼け方は見事なもので、見あげるばかりの、雨天体操場のような工場が屋根スレートも、トタン、モルタルの壁もあとかたもなくぬけおち、鉄骨だけになったコンクリートの間に、青い、鉛のかたまったようなものがあって、それが窓ガラスのとけたものだと知ったとき、その高熱が肌で理解できたように思い、こんな所で逃げおくれ焼け死んだら、さぞかしあつうてかなわんやろな、と息をつめて考え、それがもうあかん、と思いながら、空襲警報のたびに、必死で鉛のように重い脚を動かす力となった。》
 空襲のあと、鉄道は止まる。家まで約20キロを5時間6時間かけて帰る。焼け跡の死体を見ても、栄養失調の身体と頭には「はあそうか、なるほど、ぐらいの反応しか起こらなかった」。玄関にへたりこみ、食事をして、着のみ着のままでひっくりかえる。
《……思うことといえば、明日電車が動いてなければ工場を休めるんだが、ということだけだがいまいましいことに、電車は翌朝になると手品のように動いているのだった。》

 自宅には焼夷弾が10数発落ちたが、焼け残った。エレクトロン焼夷弾のときは、大人たちと早めに消しとめた。油脂焼夷弾のときは小松しかおらず、一人で消した。
……玄関先におちた二発をぬれたむしろで消しとめ、軒下でもえはじめたのをひっつかんで裏の畠にほうり出し、軒びさしの一発を庭へはたきおとし、最後に二階の大屋根につきささってもえはじめたのを、のぼっていって火たたきの棒で道路へたたきおとした。(中略、近所を見に出る)焼夷弾の雨はもうやんでおり、かわりに周囲一面の大火事によって吹きおこるおそろしい熱風が、つむじをまいて灰と火の粉をたたきつけてきた。空は一面ぶあつい煙にとざされ、それが炎を反射してにぶく赤く光り、まわりはただごうごうとうなる、眼もあけていられないような熱い旋風だった。》
 焼夷弾は何十発も束ねられてケースに入れられ投下される。そのケースの羽根「モロトフのパン籠」という大きな鉄の円筒が小松の背中をかすめた。
……一足おくれていれば、むろんこちらはグシャグシャになってつぶれていたろう。だが、そのときは、そんな事を想像してふるえあがるゆとりはなく、天をあおいで、一つ舌打ちしただけだった。(後略)》

 小松は小学生のときから「ひどい近視」で、軍国少年不適格、中学に入ると「非国民」と罵倒された。戦中から戦後にかけて、経験したものは戦争と飢えと貧困。それでも小松の文章は明るい。
……若さの中には、はてしなく暗く、重っ苦しいものがある反面、それとおなじくらい底ぬけに明るく、軽く、強靭なものもふくまれている。(後略)》
(平野)

2016年6月2日木曜日

一縷の川


 直井潔 『一縷の川』 新潮社 1977

 本書の空襲場面は長田区北部、高取山の麓。主人公・溝井勇三は戦地で赤痢にかかり、全身の関節が曲がらない病気を併発。家族にできるだけ負担をかけたくない思いから、傷痍軍人療養所に入所退所を繰り返す。45(昭和20)年314日、1年ぶりに兄の家に戻る。近所の商店は閉ざされ、家々の窓ガラスは縦横斜めに紙が貼られ、狭い庭に防空壕。その夜、大阪大空襲。B29の大編隊が神戸の空を通過した。そして、16日夜から17日にかけて神戸に。
《既に半ば予測されていて、その夕刻過ぎから遠く南方海上を北進するB29の情報が刻々ラジオを通して伝えられていたが、ただ手を拱いてきいているより仕方なかった。(後略)》
 兄が防空壕に入れるかどうか心配してくれるが、勇三は腰を屈められない。家に残る。
《やがてラジオが淡路島上空侵入を伝える頃には悪魔のようなB29の黒い機影が夜空に大きい鱶のようにうごめいて見え、その特有の鈍い金属音と共にひしひし身に押し迫るのを感じた。僕はもうすっかり観念した。》
 大倉山の高射砲が一機撃墜。近所の家から歓声が聞こえた。
《しかしその歓声も束の間続々飛来するB29の編隊から落とされる焼夷弾があたかも激しい雷鳴をまじえた大夕立のような物凄い音をたてて降りかかって来た。そしてそれまでわめきぱなしだったラジオのマイクから、「神戸市民よ、健闘せよ。」野球放送まがいのアナウンサーの声を最後にして、あとは上空を乱舞するB29のただ蹂躙にまかすばかりだった。
 急にあたりは火災が巻き起す風に木々はその梢を鳴らし騒然とした感じで、その中をいつか一面に煙がたちこめその臭いが強く鼻をついて来た。》
 家は山の谷間のような場所で直撃はなかった。前の丘の林から火の手があがり、焼夷弾の破裂音だけが聞こえる。背後の高台の家は炎上したよう。
《市中から避難して来たらしい人達が次々わめきながら家の前の坂道を上って行く。
「わしはほっといて、お前等だけ逃げ言うて、おばあさんだけが火の中で死んでくれましてなあ。」そんな行く人同士の話も耳に入った。
 果してどの位の時間がたったか。半時間だったか、一時間だったか、もっとそれ以上だったか、文字通りこの世の地獄図絵そのままの時間も、いつか姿を消したB29の撤去と共に、周囲の谷間は鼻をつくような闇と静けさが取戻された。しかしそこから見下しになっている市内の方はまだ盛んに燃え盛っていると見え、それからも長い間余燼の火明りが望見された。(後略)》
 直井の自伝小説。「一生の不具廃疾の体」になりながら文学を志し、家族・友人・師に支えられた。

直井潔19151997、本名溝井勇三)、広島県生まれ、神戸育ち。滝川中学校卒業後、区役所勤務。37(昭和12)年応召、38年病気のため送還された。療養中、志賀直哉作品に傾倒、特に『暗夜行路』の主人公が悲劇を克服していく姿に感動する。志賀に手紙を書き、作品を見てもらうようになる。志賀の推薦で『改造』(434月号)に「清流」が掲載される。神戸空襲後、東京の小山書店から手紙、大空襲で出版予定の単行本『清流』が焼失したことを告げられる。再度印刷するも、5月の空襲でまた焼ける。しかし、小山書店戦後最初の出版物として世に出る。52(昭和27)年「淵」、69(昭和44)年「歓喜」が芥川賞候補。『一縷の川』は77(昭和52)年平林たい子文学賞受賞。
 60(昭和35)年、療養所で出会った女性と結婚、彼女は空襲で脊椎を損傷して車椅子生活。夫婦は明石の自宅で習字と数学の塾を開いた。
 志賀は出版社に直井の作品掲載・出版を働きかけた。直井が師に会えたのは693月、初めて手紙を書いてから27年経っていた。
《「そう、随分になるね。」微笑されながらいわれました。(中略)
「しかし君はほんとうにえらいよ。その体でなかなか出来ない事だ。よくやって来たよ。」そういうお言葉が一瞬涙声を含んできかれ、思わず僕は先生の方を見返すようにしました。そしてそこに慈愛溢れる先生の視線に接してぐっと胸一杯の熱さがこみあげるのでした。》

(平野)
 文通だけで師弟関係が成立した。
 中央図書館で閲覧。

2016年5月31日火曜日

かいしょ女


 武田繁太郎 『かいしょ女』 東京文芸社 1969

 商家のお家はんの物語。商売、夫婦愛、子どもとの確執。『月刊神戸っ子』に19662月号から連載した「兵庫の女」を改題。
 主人公まつをは広島の山村の生まれ。貧しい村で、女の子は年頃になると色街に売られてゆく。まつをは地主の家の手伝いでもらう駄賃を貯め、家出。明治31年、まつを15歳。東京を目指すが、汽車の中から見えた神戸の賑やかな町並みに惹かれて下車。兵庫の工場地帯に行く。紡績工場の人の良い守衛(広島の人だった)に頼んで保証人になってもらい、この工場に勤める。同僚・安福利市の真面目さを見込んで結婚。共働き、内職、倹約でコツコツ貯金。現金200円を持って兵庫界隈一の呉服商に飛び込み、商品を卸してもらう。店主は叩き上げで、まつをの人柄と才能を見抜いた。まつをは社宅の人たちに掛け売りをして業績を上げ、利市を退職させて店を構える。日露・ヨーロッパの戦争景気で商売は順調。
 まつを30歳のとき良治誕生。商売が忙しく育児は乳母任せ、利市は可愛がるが彼も忙しくなる。兵庫で指折りの繁盛店となり、利市は政治家の手伝いや大会社との取り引き交渉、地域の商店と百貨店建設計画などを担当する。しかし、過労で倒れ病死。まつをは落胆し酒を飲むようになり、ついに高血圧で半身不随状態。二人の番頭を独立させ、経営から手を引く。新事業は不動産と軍事産業への投資。
 大学生になった良治は母の事業を批判する。良治は応召、恋人がいるのだが、まつをは見合いを勧め、ますます母子の心は離れる。良治は恋人と将来を約束して戦地に向かう。戦地で神戸の空襲のことは聞いていた。無事生還して、まず恋人を訪ねるが、空襲で死亡。兵庫の生家に行く。
 女中おたかに案内されて母の最期の地で弔う。反発したまま出征したが、貧しさをバネに商売に打ち込まねばならなかった母を思う。悲しみが良治の胸にあふれてくる。
 神戸空襲場面。
 310日東京、12日名古屋、13日大阪、空襲は西に伸びてくる。16日は神戸という噂が広まる。ラジオが米軍大編隊来襲を告げる。
《淡路島から西神戸の上空に侵入した先頭の一機が、一条の照明弾を投げた。照明弾はゆっくりと尾をひきながら落下し、強烈な閃光を発すると、たちまち、闇にうずもれていた街々が、白昼のようにあざやかに浮びあがった。それが攻撃の合図のようであった。
 西の空から、ききなれたB29特有の鈍い爆音が、群れをなしてひびいてきた。海と山に囲まれて東西にながくのびた神戸の街は、まず、西神戸の山の手が、敵の第一波に襲われた。》
 作戦は巧妙で残忍。市民は街中が危険と考え、山手に避難していたが、B29はそこに焼夷弾を浴びせた。海岸に逃げると、第二波の焼夷弾。山手にも海にも逃げられず街中に押し寄せると、第三波攻撃。
B29の胴体から、束になった焼夷弾がつぎつぎと吐きだされると、それらは、幾十幾百もの火の筒になり、かさなりあったまま、音もきこえずに落下してくる。と、ふいに、気ぜわしい炸裂音とともに、暗い夜空にぱっと大輪の花火がひろがり、無数にとびちった筒が、ひとつひとつ火を吹きながら、街の屋並みに殺到していった。》
《道路といわず、民家といわず、隙間もないほどに襲いかかってきた焼夷弾は、火の玉になって、あたりを焼き尽すと、それらは、生きもののようにたがいに手を握りあい、炎の長い舌で地上を舐め、街全体が、もう紅蓮の炎そのものだった。》
 防空壕は煙と熱気で、多くの人が犠牲になる。攻撃は東に来て、工場密集地の和田岬、人家の多い御崎町も火の海。半身不随のまつをは女中のおたかに背負われるように脱出。通りは避難民でひしめいている。多くの人が焼死し、焼夷弾の直撃を受けた子どもがいる。まつをは全身火達磨。おたかが助けようとするが、まつをは厳しく叱る。
《「いや。こんなことしてたら、あんたも共倒れや。良治が帰ってきたら、わたしのことを、だれが良治に話してくれるんや。さあ、おたかはん、すぐ逃げるんや」》
 人の波に押され、炎に包まれ、二人は離ればなれになる。

 武田繁太郎19191986)、神戸市生まれ、神戸三中、早稲田大学独文科卒。51(昭和26)年上期から4期連続芥川賞候補。59年『芦屋夫人』が猥褻とされ発禁、以後マダム物で流行作家になる。ノンフィクション作品に『沈黙の四十年 引き揚げ女性強制中絶の記録』(1985年、中央公論社)がある。

(平野)『神戸空襲体験記』に紹介されている武田繁太郎の「炎上の街」は『かいしょ女』の一部だった。神戸の図書館にはなく、検索すると蔵書している公立図書館は数ヵ所だけ。ダメモトで神戸文学館に行ってみた。ここになければ国会図書館に行くしかない。果たして……、ありました、読めました。『神戸っ子』WEBのアーカイブでも可能。
 みずのわ出版の『書影の森 筑摩書房の装幀 1940-2014』が造本装幀コンクールで日本書籍出版協会理事長賞受賞決定。装幀は林哲夫さん。https://www.facebook.com/Mizunowashuppan

2016年5月29日日曜日

灰色の記憶


 久坂葉子 『灰色の記憶』
 1952(昭和278月『VIKING』に発表。『久坂葉子作品集 女』(1978年、六興出版)、『幾度目かの最期』(2005年、講談社文芸文庫)所収。自伝的作品。
 44(昭和19)年夏、「私」は女学校でラジオの情報を聞いて報告する係。警報があったが、防空壕に入らず一人運動場を駆けぬけ裏山に逃げる。死の恐怖と死に対する衝動を語る。翌45年早々、女性教師と登校途中に警報があって近くの防空壕に入った。どちらも空襲そのものについては言及されていない。
 455月、動員された工場でのこと。

《空襲警報がなると、十分間走って山の壕まで行った。五月のよく晴れた日、工場地帯を爆撃された。山の壕でもかなりひどいショックを受けた。私は壕から十米もはなれた小さな神社の社務所でラジオをきいて、メガホンで報知していた。しかし、頭上に爆撃をうけているのだから報知する必要はないのである。それにすぐラジオは切れてしまった。主任教師は大きな木にかじりついてふるえていた。あの恐ろしく強がりな彼がまあ何と不恰好なと、もう一人の報道係と苦笑した。しかしその女の子も恐しいと云って壕へかけて行った。私は仕方なく、ガラスがふきとんで危いので、草原の庭へ出て、寐ころんで本をよみ出した。私には、空襲や爆撃は恐しくはなく、それより自分の罪に対する罰の方が恐しかったのである。(中略)空襲はおさまり、時々、破裂音がお腹の皮をよじり、生徒の泣き声がしていた。(後略)》

教師に叱責され、本は没収。「私」は死を意識し、生きることの意味を考えていた。生きていることを罪、苦悩を罰だと考えた。
 6月夜の空襲で山手の家が焼ける。

《物干台へ出て、父と二人で市内の焼けてゆくものをみていた。それは全く壮観であった。ざあっという音と共に、殆ど飛ぶように階下へ降りた。もうあたりは火になっていた。足許で炸裂する焼夷弾の不気味な色や音。弟と女中と姉と私は、廊下を行ったり来たりした。母は祭壇の中の、みてはならないものとしてある金色の錦の袋をもっていた。父は悄然とたっていた。(中略、消火をあきらめ表通りに出る。朝、一旦親戚宅に避難、夕方戻る)焼土はまだくすぼっていた。父は執事や叔父達と其処で後始末の打合せをしていた。金庫が一つ横だおれになっていた。ピアノの鉄の棒が、ぐにゃりまがって細い鉄線がぶつぶつ切れになっていたし、電蓄も、電蓄だと解らぬ位に残骸のみにくさを呈していた。本の頁が、風がふく毎に、ぱらぱらくずれて行った。私は何の感傷もなくそれ等の物体の不完全燃焼を眺めた。(後略)》

「私」の頭の中にあるのは「死」。以下エピローグより。
「私」は見るもので悲しみ、行うことでがっかりし、考えることで恐怖し、感情の動きで疲れる。「忘却」だけが自分を苦しめないと気づく。しかし、突然「記憶」を呼び戻さずにはいられない衝動にかられる。「忘却」を捨てようとしている。

《私は、死という文字が私の頭にひらめいたのを見逃さなかった。(中略)
 私は、だんだん鮮かに思い出してゆく。おどけた一人の娘っ子が、灰色の中に、ぽっこり浮んだ。それは私なのである。私のバックは灰色なのだ。バラ色の人生をゆめみながら、どうしても灰色にしかならないで、二十歳まで来てしまった。そんなうっとうしいバックの前でその娘っ子が、気取ったポーズを次々に見せてくれるのを私は眺めはじめた。もうすでに幕はあがっている。》

 久坂葉子19311952、本名川崎澄子)、神戸市生まれ。川崎財閥の一族(父方の曽祖父が川崎造船所創業者)、父方母方とも華族の家柄。諏訪山尋常小学校から神戸山手高等女学校卒業、相愛女子専門学校ピアノ科中退。49(昭和24)年『VIKING』同人、50年『ドミノのお告げ』が芥川賞候補。521231日、『幾度目かの最期』を書き上げた後、京阪急行(現阪急電鉄)六甲駅で梅田行き特急電車に飛び込み、自死。
 
 

 
 ふくろうは旅行のおみやげ。ありがとう。
(平野)

2016年5月28日土曜日

海の聖童女


 一色次郎 『海の聖童女』 
『展望』196712月号(筑摩書房)に発表、同年同社から単行本。70年『青幻記・海の聖童女』(けいせい)、74年角川文庫版発行。
 一色次郎19191986)、鹿児島県沖永良部島生まれ、本名大屋典一、幼時兵庫県加古川市郊外の一色で育つ。21歳のとき上京、佐佐木茂索(小説家、編集者。戦後文藝春秋社長)に師事。終戦前後、西日本新聞東京支社勤務。1949(昭和24)年「冬の旅」で直木賞候補。67(昭和42)年「青幻記」で第3回太宰治賞受賞。「海の聖童女」は受賞第1作。ドキュメンタリー作品に『日本空襲記』(72年、文和書房)がある。

『海の聖童女』
 主人公の中釜内市も沖永良部島出身、神戸製鋼所の熟練工、灘区水道筋で妻と娘カナと暮らす。4565日の空襲で妻が家の下敷きになる。
……軍需工場だけでない。爆撃のたびに、貨車の引込線のある六つの突堤はもちろん、船舶も被害を受けた。そして、無差別爆撃で市街も灰になった。斜面の神戸は、マキを積上げたようなもので、南風の強い時刻に焼夷弾をばらまくと、神戸の町は、まるで、焚火のように、あっけなくぼうぼうと燃えた。そして、人が死んだ。》
 妻は内市とカナを逃がすため舌を噛む。
 内市はカナを連れて故郷に向かう。列車を乗り継いで815日に熊本市の川尻駅に着くが、線路は空襲で寸断、鹿児島まで歩く。闇ルートの舟に乗るが、暴風雨で船長も同乗者も海に投げ出され、父娘だけが何週間も漂流して無人島に漂着する。舟に食料・衣類などが残っていて、島の豊かな自然の恵みで暮らすことができる。苦労して火をおこし、海水から塩を取り、ソテツで味噌を作る。1年後、台湾人が上陸、日本語で話しかけられた。島は台湾の東に位置していた。横浜にいたことがある李さんが島の灯台官吏になる。内市は希望すれば帰国できたが、島に残る。李さんが病気で台湾に戻り、内市はカナと灯台を守ることにする。
 
 
 内市が戦争についてカナに語る。子どもの時のケガで右人差し指が曲がらず、徴兵検査丙種合格で兵隊には行っていない。自分は戦争に関係ない人間だと思っていた。無人島の暮らしでその誤りに気づく。

……なる程わしは戦場には、出んかった。敵というても、顔がちっとばっかし違うだけで、おなじ人間じゃが、その人間、わしとおなじように、女房子供のおる人間、或いは、くにに、親兄弟のおる人間を狙いうちにするようなことは、せんかった。が、よくよく、思案してみると、わしが、敵に向わんでも、わしがつくったものが、敵を、撃ちよる。これじゃ、何もならん、おなじことじゃ。》
 内市は軍艦のスクリューや砲身を製造していた。優秀な工員だった。自分は非戦闘員だが、つくった兵器が敵の命を奪う、自分は空襲で命を奪われる。
……武器をつくる者が、一人も、おらんようになれば、戦争は、自然に、やんでしまうわけじゃ。(中略)社長は当り前のこと、事務員から現場、食堂のめしもりおばさんまで、大なり小なり、戦争遂行に努力してるわけになる。これだから総力戦というのじゃろう。(後略)》
 カナも真剣に耳を傾けている。島では金がいらない、食べものは手に入る、空襲にびくつくことはない、戦争のない天国みたいな場所、戦争を仕掛ける者もいない、船が通っても手を振らない、と。
 一色もあの815日鹿児島本線宇土駅まで歩いたが、故郷には行けなかった。日記に当日出会った父子連れのことを書いている。一色が声をかけても父子は反応しない。眠りながら歩いている。一色は小説を書くにあたって、自分があの父になり子どもの手を引こうと思った。
《今度は、どんなことがあっても、歩きつづけよう。かならず、カナをまもり抜こう。原稿生活約二十年、失職状態そっくりのなかで、家族を護り抜いた執念をこめて、この作品を書抜こう。私は書きはじめた。》
(平野)
 オランダ旅行者のおみやげ。マーストリヒトの本屋さん「ドミニカネン」の栞。「世界で最も美しい本屋」のひとつ。



2016年5月26日木曜日

三ノ宮炎上


神戸空襲を記録する会編集の『神戸空襲体験記 総集編』(のじぎく文庫 19753月初版)は市民の体験記をまとめる。野坂昭如の講演(7265日の神戸大空襲記念講演)、地図や資料の他、神戸空襲を書いた小説作品が4篇紹介(抄出)されている。
 井上靖『三ノ宮炎上』、一色次郎『海の聖童女』、武田繁太郎『炎上の街』、久坂葉子『灰色の記憶』。図書館や手持ちで3篇は全文を読めたが、武田未読。
 空襲の場面が描かれ、空襲と戦争が重要な意味を持つが、作品の主題は主人公の自我や家族への愛。

「神戸空襲」は何度もあったが、316日と65日は被害が大きく、「大空襲」と言う。
 
■ 井上靖『三ノ宮炎上』
 1951年発表。集英社文庫版(1978年、品切)、『井上靖小説全集 4』(新潮社、74年、絶版)、『コレクション 戦争と文学 15』(集英社、2012年、3600円+税)で読める。
 主人公はオミツ、女学校卒業前年の夏(昭和18)から不良仲間入り。ねぐらは三宮の中華料理店2階。不良たちは「人のいい連中」、強請・恐喝をやる者もいたが、大きな悪事はしていない。非常時でも不良はカッポしていた。

《戦争中で国全体が上から下までいやにちゃっかり組み立てられてあって、あんまり大きな事はできなかったようである。》

 オミツは他所の不良や「癇にさわる女」にケンカをふっかっけ、喫茶店に入りびたり、時々ブタ箱。
 オミツの亡父は軍医だった。その恩給で不自由なく暮らしていた。長兄は学生時代に左翼運動で検挙され獄中死。次兄は陸士卒、極右思想を疎まれ中国に派遣されて戦死。オミツは母を置いて家出。

《二人の兄を相次いで喪ったわたしの悲しみは深かった。わたしはほんとうに、二人の大好きな兄たちの遺骨の納められた家内には安らかに眠れなかったのである。わたしが二人の兄たちから共通して教わったものは、今考えれば反逆だけであったようである。二人の兄たちが自らの死をもってわたしに教えてくれたものは反抗であったのである。》

 戦時ながらオミツを「惹き付けて放さない何か」が三ノ宮には残っていた。

……舗道も店舗も通行人も、風も空気もみんな妙にきらきらして、快い眩暈の波がわたしたちを四六時中襲っていた。絶えず音楽が聞こえ、絶えず光の細片がちかちかと、あたりに舞っていた。眩しいほどの明るさ。(後略)》

 オミツは自由に遊ぶ一方、小説を読みあさる。仲間が実家の古本屋から持ち出してくる岩波文庫、女学校で禁じられていた恋愛小説、それに世界文学全集など。
 316日明け方空襲。「三時間ぶっつづけの焼夷弾の雨」。オミツは憧れていた男性の病死を知らされ、眠れなかった。

《空襲と呶鳴る声でわたしははっとして目を開けた。窓を開けると、戸外はもう真赤で、そのときはじめて気付いたのだが、ざあざあと砂を撒くような音が間断なくわたしたちの周囲に聞こえていた。(中略、仲間と避難。S百貨店地下から三ノ宮駅)
……わたしたちは三ノ宮駅の広場へ行ってそこへ腰を下ろした。焼けていないとなると、三ノ宮から離れる気持にはなれなかったのである。三ノ宮の阪急の駅の附近から加納町へかけて全然焼けていないことを知ったときは嬉しかった。》

 中華料理店が強制疎開になって、オミツたちは春日野道に移る。65日の空襲、B29の機械音と焼夷弾の落下音。高台から三ノ宮方面を眺めた。

《三ノ宮はおおかた燃え尽きてしまったらしく、燃え残っている建物を焼く火が、何カ所からも暗い煙を吐き出しながら、時折り赤い炎の舌をめらめらと天に向かって閃かしていた。
「いよいよ最後やな」
 と、オシナは言った。何がいよいよ最後か、わたしにはよく判らなかったが、その意味不文明な言葉に、妙な実感があった。わたしの胸を衝いた。》

 戦争が終わり仲間と別れた。

《とにかく、三ノ宮炎上とともに、みんな玉のごとくいずくかに飛び散って再び帰って来ない。(中略)わたしたちが好んで身を寄せ集めた、あのどこかひんやりしている、あちこちのビルの蔭も、わたしたちが日に何十遍出たり入ったりして倦きなかった三ノ宮独特の喫茶店も、もう再び現われ出て来ようとは思われなかった。もはや、そこは三ノ宮ではなかった。全く別の人種が住む新しい都会ができ上がろうとしていたのである。》

 オミツは仲間のその後の不幸を聞いて泣いた。母は亡くなった。家族のため仲間のための涙であり、自分のための涙。

《今でもわたしは三ノ宮を焼いた炎の舌の美しさを時々憶い出す。あんな美しく焼けるものの中には、やはり暗い時代に、美しいと呼ぶことを許されていい何かが詰まっていたのではなかったか。》

(平野)

2016年5月19日木曜日

書店ガール5


『ほんまに』第18号は神戸空襲をテーマにする。準備で、暗い話ばかり読んでいる。『ほんまに』では荷が重いかもしれないが、『ほんまに』なりに取り組みたい。

 そんななか、碧野圭『書店ガール5 ラノベとブンガク』(PHP文芸文庫)を通勤電車内と休憩時間で読み終える。私はライトノベルについてちんぷんかんぷんであるが、話の展開はスピーディーで予測もつく。
 今回の主人公は〈本の森〉取手店店長・宮崎彩加と〈共学館〉編集者・小幡伸光(本書メイン人物・亜紀の夫)、ニートのバイト君。ラノベ作家と編集者のトラブルがあり、ニート君を思いやる家族、いつものように書店員たちと出版人たちの連繋が描かれる。目標に向かって懸命に取り組む人たち。
 碧野の本への愛、本屋と書店員への声援に私も共感する。
場所は吉祥寺から離れて常磐線沿線。私はどちらにしても地理感覚なしです。
 
 

(平野)おっさんは、なろう系とかボーカロイドという用語がわからない。読むことはないからほうっておく。