2016年1月7日木曜日

酒と戦後派


 埴谷雄高 『酒と戦後派 人物随想集』 
講談社文芸文庫 1700円+税

 表題作ほか、戦後派文学者・文化人・芸術家たちとの交遊を語る随筆集。
「酒と戦後派」は『洋酒天国』に連載(195859、「酔っぱらい戦後派」)。

《一杯目の微醺が二杯目、三杯目と僅かに重なつていると思うまもなく、あなやもあらせじ、羽化登仙、量が質へ転化する弁証法的飛躍を一瞬の歴史の裡にとげて、忽ち、爛酔、泥酔の域に達してしまうのは、日本的酔つぱらいの特質らしい。(中略)飲みはじめれば必ず、原始の混沌か、それとも、未来の大破局のなかへ踏みこんで、記憶も消えいりそうな暗黒の奈落の底で、自分が自分でなくなつた確認をいちどしてみなければ気が済まないのである。(後略)》

 田中英光は焼酎を呑む合間にカルモチンやアドルムなど睡眠薬をかじる。「六尺二十貫」の巨体はよろけながら出版社をはしごして本を要求する。
《その頃、彼の根城になっていた新宿まで本をかかえ、アドルムを囓り、闇につつまれた原始の叢林を歩いてゆくゴリラのようにゆらゆらと揺れながら帰つてゆき、そこで最後の泥酔の決算をしてしまうのが一日の旅程なのであった。》

 武田泰淳は「敏捷型」で、呑んでいる間にどこかに消えて映画を見てきたりする。
《彼は深い洞察力をもつた鋭い批判者であると同時に、また、いささか照れる苦渋の陰翳を帯びた自覚者でもあるので、このような忽然たる消失へ走る自身の性向を反省して、なかばユーモラスになかば真面目に、生れ年の神秘について考察するところがあつた。ちよろちよろと何処かへ走り消えてゆくのは、彼が鼠どし生れのせいなのである!》

 堀田善衞は「緩慢型」、酔いがまわると歩き出す。深夜雨の中、埴谷邸を訪問したり、埴谷をあちこち引き回したり。
《一杯の酒が空虚な胃の腑に落下して行つて、極端にいえば、ナイヤガラ瀑布のような地響きをたてて鳴動しはじめると、彼は一人の充たされぬ詩人のように立ち上つて歩きはじめるのであつた。見渡すかぎりの街路の上を、これまた充たされぬ胃と心臓をもつた多くのひとびとが台風圏のなかの波のように無性に歩いているのであつた。》

 ほかに、三島由紀夫の「俺は血が見たくて仕方がないんだ」発言、「酒のみの典型」梅崎春生、「くどかれの典型」中村真一郎、「宇宙最後の酔つぱらい」島尾敏雄らのエピソードなど、ユーモアを込めて語る。

《酒をのむということは何かを傍らによりそわせてのむことである。痴愚から悲哀に至るあいだの長い暗い列がつねに酒のみの傍らによりそつている。(中略)私達は酔つぱらつている本体をかついでそこから何処かへ帰ることはできる。しかし、その傍らによりそつている透明なものについては、窮極的にはどうすることもできないのである。》
 ある詩人が太宰治と呑むたびに「あいつにはデーモンがある」と、埴谷に繰り返し言った。
(平野)できることなら「天使」か美女に寄り添っていてほしい。
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