2018年10月30日火曜日

くとうてんイベント


(株)くとうてん協力&主催イベント
 海を照らす仕事 海上保安庁展2018 


日時 1016日~1125日 月曜日休館
10001700(入館は1630まで)
会場 神戸海洋博物館
入館料 大人600円 小・中学生250


11.4(日)13001600 
講演「灯台の魅力と楽しみ方」 不動まゆうさん

青山大介鳥瞰図展 2018

日時 113日(土)4日(日)9日(金)10日(土)11日(日)
100018003日と10日は1645まで)
会場 マンダリンパレス宴会場
同時開催 祖父の写真で見る昭和の神戸、三宮、生田前

3日・4日には おかんアート展とハンドメイド展もあります。

 
10日(土)17001900 
トークイベント 鳥瞰図絵師・青山大介 都市を見る目
資料代500円要

くれぐれも開催日・時間にご注意を。

(平野)《ほんまにWEB》「奥のおじさん」更新。

2018年10月28日日曜日

やちまたの人


 涸沢純平 『やちまたの人 編集工房ノア著者追悼記続』 
編集工房ノア 2000円+税
 
 

 涸沢は大阪の文学・詩専門出版社社主、1975年創業。ゆかりの文人たちを追悼した文章をまとめる。昨年刊行の『遅れ時計の詩人』に続いて2冊目。本書は2006年から2017年まで。この間、川崎彰彦、杉山平一、大谷晃一、伊勢田史郎、鶴見俊輔、庄野至ら25名の著者が鬼籍に入った。出版の喜びがあり、著者・家族との熱い交わりがあり、追悼記執筆という苦行がある。
 年少の友も見送った。三輪正道は181月胃がんのため死去。ノアから著書5冊出版。

〈最後の別れでは、一人ひとりが三輪正道の口唇に酒を含ませた。/棺の中、痩せてはいたが病みおとろえた感じはなく、ねむっているようにも見えた。充分若さが残っていた。(中略)/「ぶんがくがすき」「酒がすき」、すさまじきものは宮仕えと言いながら、読むこと書くことを習慣とし、五冊の著書を残していった男の顔、を改めて見た。作家の顔をしていると思った。〉

 書名は、足立巻一(191385年)『人の世やちまた』(同社、1985年)から。江戸時代の文法学者・本居春庭の評伝『やちまた』(河出書房新社、1974年。現在は中公文庫で読める)他著書多数。春庭は動詞の活用を研究、「詞の八衢(ことばのやちまた)」を著した。「やちまた」とは道がいくつにも別れる場所のこと。足立は、人生そのものがやちまた、人のつながりも分かれながらつながっている、と書いた。

 涸沢は、著者たち読者たち、すべての『やちまた』に感謝、を述べる。

(平野)

2018年10月23日火曜日

怠惰の美徳


 梅崎春生 『怠惰の美徳』 荻原魚雷編 中公文庫 
900円+税

 梅崎春生(191565年)、福岡市生まれ、小説家。野間宏、埴谷雄高、椎名麟三、武田泰淳らと並ぶ「第一次戦後派」のひとりだが、遠藤周作ら「第三の新人」との親交も深い。54年、『ボロ家の春秋』で直木賞。
 本書は、自らを怠け者と綴る詩、随筆と短篇小説収録。

「三十二歳」
三十二歳になったというのに/まだ こんなことをしている//二畳の部屋に 寝起きして/小説を書くなどと力んでいるが/ろくな文章も書けないくせに/年若い新進作家の悪口ばかり云っている(後略)

 戦後まもなくのことを詠った詩、初出は死後。結婚できず、外食券食堂で飯を食い、ぼんやり空を見上げ、酔って裸で踊る。
 その32歳(数え年)で「桜島」を発表し、文壇デビュー。暗号兵は米軍上陸に備える桜島に転勤が決まる。出発前夜、妓楼で片耳のない女と過ごす。

……あなたは戦うのね。戦って死ぬのね。どうやって死ぬの。……いやなこと、聞くな。お互いに、不幸な話は止そう。……わたし不幸よ、不幸だわ。……

 同じく死後に発表された「己を語る」で、好きなものは、酩酊と無為、と書く。戦前の役人生活でも自主的に怠けていた、仕事がさし迫ってくると怠けた。仕事があるから怠けるのだ、と開き直る。

「怠惰の美徳」の題で文章を依頼された。著名な評論家が梅崎を「ナマケモノ」と書いたからそんな注文がきた。本当は「閑人」と書かれたのだった。

〈ナマケモノと閑人とは大いに違う。どうも変だと思った。私自身にしても、ナマケモノといわれるより、閑人と言われる方が気持がいい。私は「閑人の美徳」という文章を書くべきであったようだ。〉
 と書きつつ、堂々と自らを「怠け者」と言う。世間は「怠け者」に厳しい。怠けていたら必然的に貧乏になる。他人の邪魔をしないが、自分も邪魔されたくない。親分にならないし子分にもならない。群れない。怠惰であることの矜持がある。

 解説の荻原は梅崎の小説に心を摑まれ、「自分のための文学」と思う。洞察力鋭く、それをユーモアで包んでいる、と言う。

〈「怠け者」だからこそ、社会にうまく適応できず、規則通りに動いているかのようにおもえる世の中のおかしさを見抜くことができた。とくに人間の本能、あるいは理性や知性の脆さにすごく敏感だ。(後略)〉(荻原)

(平野)
 私は怠け者というよりグウタラである。しょっちゅう家人にケツを叩かれて、何回かに一度動く。
《ほんまにWEB》「海文堂のお道具箱」更新。

2018年10月21日日曜日

井伏鱒二全詩集


 『井伏鱒二全詩集』 岩波文庫 600円+税

 岩波文庫夏の一括重版の1冊(同文庫初版は2004年)。神戸の新刊本屋さんでは売り切れていた。筑摩版『厄除け詩集』を持っているので、まあいいかと思っていたら、大阪堂島の古本屋《本は人生のおやつです!!》で見つけた。店主は新刊も直接出版社に交渉して仕入れている。

 井伏の詩は、漢詩の翻訳、〈……「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉などで知られる。
 はじめて読んだとき、「懐君属秋夜 散歩咏涼天」の訳は意味がわからなかった。
「ケンチコヒシヤヨサムノバンニ アチラコチラデブンガクカタル」

 後に、「ケンチ」が親友中島健蔵のことで、彼の体調を気遣っていたと知って、驚いた。

 
 本書には筑摩版に収録されていない作品21篇あり。1923年「土井浦二」名の作品も。

「小魚の群れ(こうをのむれ)」
或る日の雨のはれま、/路の上に竹の皮の包がおち、/なかからつくだにがこぼれ出た。(後略)
 いろいろ解釈ができるだろう。生と死、大量の死体、残された者の悲しみ……1925年、この作品は改稿、「つくだ煮の小魚」に。

 井伏の漢詩訳には参考書があるという調査研究があって、本書解説者はそのことを考察、井伏訳の自由大胆、推敲の苦心を読み取っている。参考書については、井伏自身も父親のノートの存在(江戸時代の俳諧師による和訳を抜き書き)を語っている。

(平野)《本おや!!》のフェアは「本のヌード展」、〝脱がすとすごい本の古本市〟を同時開催(ともに10.20で終了)。本の装丁や函やカバーと本体表紙のギャップ、装丁家の工夫(いたずら)に着目して、出版関係者たちが選書・出品。 

 《ほんまにWEB》「しろやぎ、くろやぎ往復書簡」更新しています。

2018年10月18日木曜日

神保町が好きだ!


 『神保町が好きだ! 2018』 
本の街・神保町を元気にする会 

 特集は「いま、出版社のPR誌はこんなにおもしろい!」。
 
 
 座談会「出版社のPR誌の歴史と現在」ほか、「図書」「書斎の窓」「青春と読書」「ちくま」「本の窓」編集者の話、それに平凡社のウエブマガジンも登場。

 出版社発行だけでなく、出版団体や本屋さんのものを含めたらどれくらいあるのか。研究者向け、書店員向け、図書館員向けもあるだろう。本冊子に一覧表がある。
 PR誌連載が本になることも多々ある。広告宣伝物ではない。

 PR誌の始まりは丸善の「学鐙」。丸善は明治12年には目録を作成、和洋書と文房具の月報も作っていたそう。店舗拡大し、読書人口、購入者増加。読者に新刊情報を伝えるため明治三〇年に「學の燈」創刊。昔は火偏の「燈」。「学びのともしび」。表紙の誌名の下に〝The Light of Knowlege〟とある。

……内田魯庵が初代編集長で、「學鐙」を単なるPR誌ではなくて、日本の文化に寄与し、世界の文化受容の窓口になる、社会や時代の鑑になるような雑誌にしていきたいということで、……〉(飯澤文夫明治大学史資料センター研究調査員)

飯澤さんは続けて、学・学ぶというのは単なる学問ではなく知識なのだ、と解説する。誌名の「燈」が「鐙」に変わったことについて、「鐙」は馬具のあぶみで、登竜門の意味がある。

……「学鐙」に掲載される、紹介されるというのは、登竜門なのだという自負ではないかと『丸善百年史』の資料編に中西敬二郎が書いています。誇り高い出版物であったのだと感じます。〉(飯澤)

 いつごろからPR誌と呼び始めたのか不明。私が書店員新米時代(1970年代後半)にはそう呼んでいたと記憶する。
 PRとは、パブリック・リレーションズと習った。「宣伝」とは明らかに異なる。

(平野)空犬さんのブログで紹介があったので、欲しい、読みたいと思っていたら、婿殿が入手して送ってくれた。ありがとう。
 私は直接購読2誌(月刊)、本屋さんでいただくのが4誌(月刊3、季刊1)ある。無料だと時々手に入らなくて購読が途切れてしまうこともある。仕方ない。

2018年10月16日火曜日

海の本屋の話 補遺


 『海の本屋の話 海文堂書店の記憶と記録』(苦楽堂)補遺

 1925年から26年(大正1415)に海文堂書店が出版した『海事大辞書』(全3巻、住田正一編著)について本書で書いた。海文堂創業者・賀集喜一郎は海運業界出身である。セット価格25円、現在なら89万円相当の豪華本。残念ながら売れ行き不振で海文堂は倒産の危機に陥った。

編著者・住田について『海事大辞書』に「法學士」とあるだけで詳しく知らなかった。海商法・海運交通の権威だろうと思っていた。『みなと元町タウンニュース』(みなと元町タウン協議会)の連載コラムで鈴木商店と米騒動を調べていて、住田が当時鈴木社員だったこと、大番頭・金子直吉著書の口述筆記をしていたことがわかった。鈴木破綻後は金子のもとで債権整理に奔走した。

鈴木商店は1918(大正7)年8月の米騒動焼打ちで多大な損害を受けたが、翌年には三井物産を抜いて年商日本一になる。住田の入社は18年、鈴木激動の時代を金子と共に過ごした。住田は多忙の中、『海事大辞書』の編纂をしていた。
 
 住田は鈴木退社後、国際汽船取締役のかたわら海事史研究を続けている。青山学院では海運交通を講義した。講義のこぼれ話を海文堂から随筆集にして出版、1935(昭和10)年『考古漫筆』、37(昭和12)年『浮寳随想』、38(昭和13)年『桃園雜記』の3冊。どれも神戸市立中央図書館で読める。               『桃園雜記』に鈴木時代の話が収録されているので借りた。「桃園」は当時の住まい旧武蔵国桃園(東京都中野区)にちなむ。表紙の絵は明治の初めに文部省が発行した家庭教育用錦絵読本から。西洋偉人シリーズの1枚、「綿花織機発明ヘイルマン」、子どもの髪を編む指の動きにヒントを得た。表紙にした理由には触れられていない。最初の章「物の考へ方」で人類の頭脳の発達と事業への応用について書いているので、そこからか。「異人繪」の章もあるが。

 住田は47(昭和22)年から東京都副知事、54(昭和29)年から呉造船所社長を勤めた。海運・造船業界での貢献と海事資料出版・研究の功績により、「住田正一海事賞」(三部門、日本船舶海洋工学会)が創設されている。収集した文献は神戸大学附属図書館「住田文庫」に、趣味の古瓦コレクションは国分寺市の武蔵国国分寺跡資料館に、それぞれ保存されている。
 
 
 

 

 
 

(平野)以下は私の推測。『海事大辞書』はそもそも鈴木商店ありきだったのではないか。企画は鈴木隆盛時代だろう。住田は「序」で金子の名をあげて支援に感謝している。海文堂は販売でも鈴木関連会社での買い上げ・拡販を期待していただろう。ところが、刊行時には鈴木は窮地に陥っていた。22(大正11)年海軍軍縮、23(大正12)年関東大震災で打撃を受け、銀行業界からは融資を締めつけられる。鈴木内部では金子の力を抑える勢力が台頭していた。『海事大辞書』不振について時期的には説明がつく。確たる証拠なし。  
 海文堂在職時代、『海事大辞書』を倒産云々で、呪われた出版みたいに思っていた。実物は海文堂出版にナフタリン漬け保存され、中央図書館所蔵本は表紙が補修補強されてオリジナルの姿ではない2012年4月、ある団体から逆寄贈されて、数日間だけ海文堂書店で現物そのものに触れることができた。すぐに別のところに寄贈されて行った。あの時は鈴木商店や住田について深く考えなかった、考えられなかった。

2018年10月11日木曜日

好きになった人


 梯久美子 『好きになった人』 ちくま文庫 760円+税
 
 
 前回紹介『原民喜』著者のエッセイ集。『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社)、『狂うひと――「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮社)他取材した人たちのこと、薫陶を受けた作家たちのこと、編集者から作家になるまでのこと、家族・子ども時代のことなど。

 梯は編集者を辞めライターになる時、担当していた作家にどんなものを書きたいのか訊かれた。自信を持って答えられなかった。作家は、筆を汚すな、金がないときは借金するか男を騙せ、と忠告した。まだ文章を書いて生きることのきびしさと怖さを知らなかった。

〈人を取材して書く、というのが私の仕事の基本ですが、それは対象を素材として扱うことであり、言ってしまえば「ネタ」にすることでもあります。この人を書きたい、と思う動機は、私の場合はいつも「好き」という気持ちですが、好きになった相手をネタにしてしまうことへのうしろめたさがつきまとうのも事実です。〉

 島尾ミホにインタビュー時、何度目かで彼女が「そのとき私はケモノになりました」と語り始めた。梯は「背骨を戦慄が駆けあがりました」と書くほどの衝撃を受けた。『狂うひと』はインタビューから刊行まで11年かかった。

(平野)
 著者の本の思い出話。両親共働きでひとりぼっち、本屋に入り浸った。中学生のとき、好きな棚ができた。新書館の詩集、エッセイ集、小説を揃えた棚。特に寺山修司の「あなたの詩集」シリーズを繰り返し読んだ。寺山が選んだ10代少女たちの詩。自分も書きたいと思った。中学生から高校生、少女の心は複雑・不安定。

〈そんな私にとって、あの棚は、自分が今いるこの世界ではない場所への回路のようなものだったと思う。地方在住の文学少女だった私は、ものを書くことが、自分が本当に知り合いたい未知の人々とつながる方法になり得ることを、あの棚の前で知ったのである。〉

2018年10月9日火曜日

原民喜


 梯久美子 『原民喜 死と愛と孤独の肖像』 岩波新書 
860円+税


 原民喜は1905年広島市生まれ、作家・詩人。故郷に疎開中被爆。代表作『夏の花』。51年鉄道自殺。

 原の「死」から始まる。

〈原は自分を、死者たちによって生かされている人間だと考えていた。そうした考えに至ったのは、原爆を体験したからだけではない。そこには持って生まれた敏感すぎる魂、幼い頃の家族の死、厄災の予感におののいた若い日々、そして妻との出会いと死別が深くかかわっている。/死の側から照らされたときに初めて、その人の生の輪郭がくっきりと浮かび上がることがある。原は確かにそんな人のうちのひとりだった。この伝記を彼の死から始めるのはそのためである。〉

 原は生前「三田文学」編集に携わりながら、同誌や「近代文学」に作品を発表していた。出版した本は戦前の自費出版『焔』と49年の『夏の花』だけで、世間的には無名。幼少時から他人と接するのが苦手だったが、彼を保護する人、慕う人、才能を認める人たちが多くいた。葬儀委員長は佐藤春夫、弔辞は柴田錬三郎と埴谷雄高、会葬者に文壇著名人の名が並ぶ。

原は家族・友人宛に何通も遺書を書いている。年下の友・遠藤周作はフランス留学中だった。遺書を渡され、原の作品「永遠のみどり」に共通の友人と登場する。原は戦争と原爆の不安の中、次の世代の人々に希望を託した。遠藤も自覚していて、日記に「荒涼たる冬を経た彼からバトンを引き渡さるべき人間であったに違いないのである」と書いている。原は死ぬ前、「中国新聞」に小説と同名の詩を寄稿。

「ヒロシマのデルタに/若葉 うづまけ (中略)ヒロシマのデルタに/青葉 したたれ」と書送った。

〈原は自死したが、書くべきものを書き終えるまで、苦しさに耐えて生き続けた。繰り返しよみがえる惨禍の記憶にうちのめされそうになりながらも、虚無と絶望にあらがって、のちの世を生きる人々に希望を託そうとした。その果ての死であった。〉

(平野)
 岩波新書創刊80年。記念冊子『図書 臨時増刊 はじめての新書』は本屋さんでもらえる。
《ほんまにWEB》「奥のおじさん」更新、と言っても8月分ですが。