2023年4月30日日曜日

対談 日本の文学

4.25 買い物ついでに南京町・赤松酒店に呑み会「明日本会」の人数お知らせ。昼間から呑めないので心苦しい。

4.26 ゴールデンウィーク中に1日出勤するため本日代休。今週は休みが多いと思っていたら明日臨時出勤要請あり。

 見ず知らずの方から「西村貫一」関連の資料が届く。牧野富太郎研究の方がツテをたどって元町事務局に連絡してくださった。感謝申しあげます。

4.28 「朝日新聞」の2面「ひと」欄に89歳サーファー登場。新しい技に挑戦中、お仕事も現役。「90代が楽しみで仕方がない。僕は『大器晩成』ですから」。

仕事終わって、4年ぶり明日本会呑み会。なんやかやでコロナ期間中も会っている人もいれば、正真正銘4年ぶりの人も。みんなかけがえのない呑み仲間。関西出版界のまとめ役だった川口正さんに献杯。わいわいがやがや、お腹いっぱい呑んでおしゃべり。コーヒー豆、ネコ人形、英文学論文集などをいただく。

4.30 「朝日歌壇」より。

〈横顔の子規載る参考書も見つけそと雨戸繰る亡き父母の家 (京都市)森谷弘志〉

 

 『対談日本の文学 素顔の文豪たち』 中央公論新社編 

中公文庫 1200円+税



196470(昭和3945年中央公論社創業80年記念出版『日本の文学』(全80巻)の付録月報に掲載した対談・鼎談などをまとめて、71年に単行本化。文庫化にあたり、三分冊に編集、その一冊目。

雑誌「中央公論」の歴史は古い。前身「反省会雑誌」(明治20年創刊)は仏教雑誌だったが、明治32年「中央公論」に改題、総合雑誌になった。滝田樗陰編集長によって文芸欄が拡充した。

50年前には幸田露伴、森鷗外、夏目漱石ら文豪を直接知る人たちが健在だった。 

「父・森林太郎」 森茉莉・三島由紀夫

 三島が鷗外の漱石に対する気持ちを訊ねる。

(森)私はライバル意識があったような気がします。(略)お父さんを見てそう思うんじゃなく、あとで考えてそういう気がします。二人の小説にはおなじようなのもあって、それでかなりうらやましくもあったかもしれないし、そうかって親しみもあったんじゃないかしら、本を贈ったりして。

「夏目漱石を語る」 夏目伸六・中野好夫

 文壇のつき合いのない時代。

(中)おもしろいのは、森鷗外さんと、著書の贈りや贈られたりはありながら、ほとんど会ってない。

(夏)そうですね。親父が修善寺で病気した時、鷗外さんが部下を見舞によこされたんですが、恐縮してました。

(平野)

2023年4月25日火曜日

日和下駄

4.22 花壇のさくらんぼが色づいて少しずつ摘み取り。昨年は強風雨でほとんど落ちてしまった。ご近所さんが筍くださって、お礼にさくらんぼお渡し。ものすごい交換アンバランス。



 図書館。「金曜」表紙コピー。西村貫一編『山口正造君会見記』17ページ、1942年、非売品)を借りる。山口は箱根の有名ホテル「ふじやホテル」の経営者。1941(昭和16)年12月「ふじや」訪問。子ら(後継者)に向けて、山口会見感想と彼の長所・短所を語る。褒めるところは褒める、批判すべきところは批判。



 午後買い物。いつもの本屋さんで文庫1冊、花森書林で神戸本2冊。

 姉孫はパパと大相撲横浜巡業観覧。大好きな力士に手紙を渡して、サインもらって大喜び。写真いっぱい。ちびっ子ファンがたくさん集まったそう。

4.23 「朝日俳壇」より。

〈生涯の一書と出会ひ卒業す (明石市)榧野実〉

 天王寺にて、友人夫妻と昼食会。近況・家族の話。ヂヂババごきげん休日。

4.24  孫電話。姉は相撲の話、歌の会の話。妹はパパと公園行って、ハンバーガー食べた話。姉妹とも大きな声、元気元気。


 『永井荷風 ちくま日本文学全集031』(筑摩書房1992年)

「日和下駄」「濹東綺譚」「西遊日誌抄」他。荷風は「よく歩くお人」(解説・小沢信男)。こうもり傘持って、下駄履き、江戸の古地図携帯

〈今日東京市中の散歩は私の身に取っては生まれてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない。〉「日和下駄」より。

 


(平野)

2023年4月20日木曜日

こころがゆれた日

4.18 ギャラリー島田DM作業。晩御飯当番、買い物もせねばならんので、作業終了前に失礼。

4.19 通勤と休憩時間に読む本枯渇。積ん読棚ひっくり返す。

「金曜」10へちまクラブ、1949.11月)は「特輯號 兒童詩集」。大阪市立田辺小学校1年生・山口雅代の詩12篇。

 前年春、井上靖(当時毎日新聞学芸部)と竹中郁が監修して月刊児童詩誌「きりん」(尾崎書房)を創刊。「金曜」世話人・西村貫一はこの児童文化育成事業に共感し、「特輯號」を発行。

 雅代は脳性マヒのため自筆できない。口に出すことばを母親が書き取る。加筆・削除しない。

「電線のかげ」 

〈ながいながい水たまりに/電線のかげが映って/かぜがふくと/ゆらゆらとわたしを追ってきた/立ちどまったら/追いこして行く/後から後から走ってくる/かげ/かぜが止むと/ピタリと/一本の線になった〉

竹中は指導しない。山口家を訪問して、

〈お母さんの情愛のこまやかな生活ぶりをみて、やはり愛情の中の生活が詩を生むのだと見てとった。あらゆる芸術は愛情から生まれる。自身の愛情からか、他人からの愛情からか、いづれにしても芸術の基盤になるのはこれだという確信を、その時大いに新たにした。〉

 


 表紙の絵は小磯良平。


 山口雅代 山口昌弘・絵 『こころがゆれた日』 編集工房ノア 

1000円+税 20229月刊



「金曜」で知った小学生詩人・山口雅代は健在。新聞や機関紙にエッセイ執筆。

本書は〈浮田要三と『きりん』の世界〉(2022.911月、長野県小海町高原美術館)にあわせ出版。浮田(19242013年)は美術家、雑誌「きりん」の元編集者。書影左上のアルファベットは、母ワカサW、雅代M、子息昌弘M、浮田Uを組み合わせたもの。浮田は不登校だった子息の絵を褒めてくれた。表紙はじめ多数掲載。

〈児童詩誌『きりん』と巡り合ったのは私が六歳のときです。脳性マヒという障害を持って生まれた子を授かり、母はどんなに不安だったことでしょう。そして、悔しいこともあったでしょう。親子心中を考えたこともあったそうです。そんな時、勇気を下さったのが『きりん』の先生方。この子の言いたい事書くのは私しかおらん……と思いなおしたそうです。/私も今まで来れたのは『きりん』で叩き込まれた、核を見る。という力でした。物事の核。/とくに人間の核です。(後略)〉

 雅代は家族に先立たれ、自身の健康も不安。

〈空が見える。街も、絵も、本も読める。/五月の青嵐も、揺らめく木漏れ日も、私を支えてくれる人たちの温かさに甘えることもできる。そして、書ける。/私には沢山の感性がまだ残ってる。これも親に貰ったものなんだよね。/まだまだ残っているものを引っ提げて八十代に突入だ。〉

(平野)

2023年4月16日日曜日

魔術師列伝

4.15 脚と腕に湿疹、いよいよ老体腐敗か。皮膚科診療。

 また物騒な。政治リーダーに向けて鉄パイプ爆弾らしきものが投げられた。批判・抗議は紙爆弾、ペンの剣、デモ、投票で。

4.16 「朝日歌壇」「朝日俳壇」とも大江健三郎と黒田杏子追悼作品入選多数。一首一句ずつ紹介。

〈大江さんのまなざしにゐた光さんの「静かな生活」CDに聴く (浜松市)松井惠〉

〈白葱のごとくさらりと筋通し黒田杏子は光となれり (諫早市)麻生勝行〉

〈杏子(ももこ)とふ山姥(やまんば)大往生 (我孫子市)松村幸一〉

〈わが春暁たりしよ大江健三郎 (山口市)吉次薫〉

 午前中図書館、西村貫一調べ。

午後いつもの本屋さん。前に文芸書棚に新興宗教教祖の小説あり、と書いた。今日隣から大江健三郎論を抜く。なんか納得できない。ちゃんとした棚から買いたい。

BIG ISSUE453。特集は「わたしの隣人、人権はどこに」。

 


 澤井繁男 『魔術師列伝 魔術師G・デッラ・ポルタから錬金術師ニュートンまで』 平凡社 2800円+税



 魔術師、錬金術師。ファンタジーか、悪魔の手先、幻術・妖術師、山師と思っていた。

本書の「魔術師」とは、ガリレオ以降の近代科学に橋渡し役を果たした知識人、「自然魔術師」。

〈自然魔術とは自然をあるがままにみつめ、さらにその内奥に霊魂の存在を認める、というもので、アニミズムであり、キリスト教とはなじまない。ここでの魔術とは知識の意味で、自然にたいする知識とその探究、つまり自然探究を指す。〉

 占星術や伝統医術など経験的自然学。「学」以前の「術」の世界。「自然魔術」の時代はルネッサンス末期まで続いた。

ヨーロッパ世界は長い間イスラム勢力と戦った。8世紀初めにイベリア半島が制服された。第一回十字軍は1096年。イベリア半島グラナダを奪還したのは1492年。学問・思想でもギリシア語文献はアラビア語に翻訳されていた。アラビア人はギリシアの思想や詩、歴史よりアリストテレスの理系哲学を「学問の最高峰」とみなしていた。十字軍による道路整備でこれらのギリシアの文献が翻訳される。これが「一二世紀ルネサンス」。ヨーロッパの知識人はアラビア語を学び、アラビア語の研究文献をラテン語に翻訳。そして15世紀後半ギリシア語原典からラテン語翻訳の時代になる。

〈そもそもルネサンスは「始原」からの「再生」の意味で、これまで日本では「文芸復興」と訳されてきたが、文芸よりも美術の分野でのほうがはっきりと、中世とルネサンスの違いがわかりやすい。〉

 美術、文芸が進化し、さらに「ヘレニズム文化」の多神教=異教の文化が流入する。

 一方、錬金術の対象は鉱物。金銀に変える。鉱物の裡に霊魂の存在を認め、救済する。これこそ妖しい術だが、医学・化学の発展につながる。

 表題の「ポルタ」はガリレオと親交した自然魔術師。『自然魔術』全20巻を刊行。磁石とレンズについての論考は現代も評価されているそうだ。

「ニュートン」は万有引力のニュートン。「最後の錬金術師」と呼ばれる。

〈錬金術にたいしても、合理的精神で臨んだ。合理主義的に実験や検証を重ね、金属変成が実現可能であることを証明しようとした。錬金術に手を染めた、という点では「前近代的」であったが、その手法が「近代的」であった。〉

著者はイタリア・ルネサンス文学文化論専門。小説家でもある。「海鳴り」(編集工房ノア)で名前発見。

(平野)

2023年4月15日土曜日

だけどぼくらはくじけない

4.12 大陸から黄砂飛来。今回はいつもより大量とか。マスク要。

4.13 ミサイルも飛んでくる。

村上春樹6年ぶり書き下ろし新刊発売。日付が変わった午前0時開店したお店、開店時間早めたお店も。お祭り騒ぎ。本屋大賞も決定。本が話題になって、本屋さんが賑やかになって潤えば良い。

「海鳴り」(編集工房ノア)で知った詩人の本到着。

 

 『だけどぼくらはくじけない 井上ひさし歌詞集』 町田康編 新潮社 

2000円+税



「ひょっこりひょうたん島」は音楽劇だった。小説「吉里吉里人」の国歌、テレビ番組や演劇作品などの主題歌・劇中歌など全63作。テレビアニメ「ムーミン」の歌が井上作詞と知っていたけれど、本書で「おそ松くん」「秘密のアッコちゃん」も井上作と知る。

メロディを知らないものが圧倒的に多い。歌えなくても、詞の思いは伝わる。井上が考えて推敲して苦闘したことはわかる。

町田のエッセイ6編。装幀・挿画、南伸坊。

すぐ口ずさめるのはやはり「ひょうたん島」の歌。本書には掲載されていないが、「もしもぼくにつばさがあったらなあ」とか「べんきょうなさい」とか「きょうがだめならあしたにしまちょ」とか。ヂヂは中学だった。進歩していないということ。

(平野)

2023年4月11日火曜日

疾走! 日本尖端文學撰集

4.8 大阪の出版社・編集工房ノアから年に一度のPR誌兼目録「海鳴り」35号が届く。新刊案内に「へちまクラブ」関連で知った「山口雅代」という名前を発見。児童詩「きりん」の詩人だが、同一人物か? その本を注文。


 

4.9 「朝日歌壇」より。

〈赤本の問題文の物語続きを探しに春の書店へ (奈良市)山添葵〉

〈歳月は再び三たび返りくる曽孫を膝に絵本ひろげて (岩国市)木村桂子〉

「朝日俳壇」より。

〈混沌の世のまま大江逝きし春 (伊賀市)福沢義男〉

〈逃水を追ひし青春大江逝く (大和市)岩下正文〉

 午後落語。「桂吉弥独演会」けんみんホール。「夢の革財布」、上方版「芝浜」。

4.10 統一地方選挙。「いしん」という政党が躍進とか。私のまわりには支持者いないのに、なんでか? 交際が狭いからか。同級生のベテラン市会議員が落選している。

 

 『疾走! 日本尖端文學撰集 新感覚派+新興芸術派+α』 

小山力也編 ちくま文庫 880円+税



 文明開化の明治時代にもまだ東京には江戸の名残りがあった。関東大震災で近代都市化が一気に進む。文学界では芥川龍之介の自死、自然主義の衰退、一方プロレタリア文学の隆盛。大正末期から昭和の初め、文学・芸術の世界にも新しい感覚・運動が巻き起こる。新感覚派、未来派、立体派、ダダイズム、モダニズムなどなど。

 本書登場の作家は、藤沢桓夫、横光利一、堀辰雄、川端康成、龍胆寺雄、片岡鐵兵、窪川いね子ら17名。

編者は「一瞬の燃焼、モダニズムの煌き――まるで「詩」で「小説」を書くように、煌めく比喩表現で綴られる文章」と紹介する。

 川端康成「狂った一頁」。脳病院を舞台にした映画の脚本。

 夜。脳病院の屋根。避雷針。豪雨。稲妻。/ 花やかな舞台で花やかな踊り子が踊っている。/舞台の前の鉄の立格子が現れる。牢格子。花やかな舞台が次第に脳病院の病室に変って行く。/踊り子の花やかな衣裳も次第に狂人の着物に変って行く。/狂った踊り子が踊り狂っている。(後略)〉

 神戸ゆかりの作家が4名。今東光と稲垣足穂は有名。

山下三郎は山下汽船創業者の三男。学生時代から川端康成と交流。実業の傍ら文芸誌「新三田派」創刊。

石野重道は関西学院で足穂の一級上だったが、留年して一級下になる。共に佐藤春夫に師事。

(平野)

2023年4月8日土曜日

もぐら草子

 4.4 BIG ISSUE452。表紙とインタビューはカズオ・イシグロ。特集「非戦のリアル」。巻頭「私の分岐点」は坂本美雨。

 


4.5 「みなと元町タウンニュース」368。拙稿は戦後の西村貫一、へちまクラブ創立。

https://www.kobe-motomachi.or.jp/motomachi-magazine/townnews/

4.6 臨時出勤。桜の木がマンション内1本と隣の会社敷地に多数あり、雨風で桜吹雪状態。廊下・階段を掃いても掃いても桜舞い落ちる。塵取りに入った花びらも飛び出てくる。全部撒いたら気持ちいいかも。いやいやそれはいけませぬ。

4.7 訃報、ムツゴロウ畑正憲。

 今日も雨風強い。桜散ってしまった。

 

 鈴木創士 『もぐら草子 古今東西文学雑記』 現代思潮社 2400円+税



 20226月刊。新刊時見落とし、遅まきながら。

20121月から213月まで「神戸新聞」読書欄に月1回連載したコラム。社会時事と共に古典文学から専門のフランス文学・思想、ギリシャ・ローマ、聖書、さらに映画・演劇・音楽を語る。

「もぐら」とはゴッホのデッサンについての言葉から。「目には見えない鉄の壁を貫いてひとつの通路を開くという行為であり、その壁は人が感じ取ることと為し得ることの間にある」「この壁をじょじょに侵蝕し、ヤスリを使って、ゆっくりと、辛抱強く、それを通り抜けねばならない」。古今東西の文学・思想をもぐらのように掘り返す。

「春死なん」

母上は詩歌に親しみ、古今の詩文を諳んじることができた。西行の「願はくば花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」も愛唱。西行は散る桜と共に死に向かう。

入院中の母上が重篤になる。病院までの並木道、桜満開。

……桜を愛でるということはここのところ絶えてなかったが、今年は何か違う予感があった。しばらくして満開の桜も雨ですっかり散ってしまい、目の覚めるような青葉の新緑が私の眼を射抜いたその日に母は死んだ。〉

 海文堂書店閉店のことも取り上げてくださった。感謝いたします。

(平野)

2023年4月4日火曜日

森於菟 鷗外作品と父鷗外

4.2 「朝日歌壇」より。

〈信州をルーツの「みすず」休刊と知るに案ずる「図書」や「ちくま」を (長野市)細野正昭〉

 夜のテレビニュースで訃報。328日坂本龍一逝去。ご冥福を。

4.4 訃報。芹沢俊介、小浜逸郎。ご冥福を。

 呑み会「明日本会」の案内に会員諸氏の返事が早い! みんな待っていてくれたのだね。

 朝の連続テレビドラマ、牧野富太郎をモデルにした話が始まる。世界的な植物学者で苦労人ゆえエピソードはいっぱいあるでしょう。神戸にも縁が深い。妻はじめ女性に苦労をかけたこと、支援者との関係はどう描かれるか。

 前回に続いて、森於菟随筆「鷗外作品と父鷗外」「金曜」第49(へちまクラブ、1953[昭和28]5月、表紙の絵は山田無文)掲載



 1902(明治35)年、於菟は独逸学協会中学(現在の獨協中学・高等学校)2年生在学中。鷗外の随筆「大家(たいか)」が国語教科書に掲載された。ハイネ青年が文豪ゲーテを訪問した時のゲーテの態度を批判した文章。国文のS先生が鷗外について、医学博士で偉い文学者、諸君も医者になるのだから文学教養もこの大先輩を目標とすべき、と訓戒。S先生は於菟のことを知らなかった。於菟はクラスで最年少、体格小さく、気は弱く。

……級のなかで一向幅きかず、交際範囲も甚だ狭かったが、この時だけは数名の同輩が私の方をふりむき、ウインクみたいなことをするのもいた〉

 帰宅して鷗外に教科書を見せた。

……父は知らん顔で二、三行音読して、さて眉の間に縦のしわをよせ「だれが書いたのか、へたな文章だなあ」といった、教科書の編さん者が著者にことわらず且つあまり得意でない所を転載するのが不快でもあり、子供に対しても少し照れくさかったのかもしれない。〉

 S先生は同級生の「親切なおせっかい」によって「チビ小僧が文豪のせがれなることを認識」。於菟は作文の点数がよくなったように思う。

 鷗外死後、著作権が確立。出版、転載、放送、上演などのたびに於菟が承認を求められる。台湾赴任中、中学教科書編纂委員を務めたが、鷗外の文章が取り上げられることはなかった。戦後帰国すると、鷗外作品掲載が「著しく多くなった」。すべて承諾するが、問題がある。鷗外作品は旧仮名遣いであるべきと思う。それに採用作品の偏り、「山椒大夫」「高瀬舟」「安井夫人」。

(平野)

2023年4月2日日曜日

森於菟 観潮楼の玄関

3.31 通勤電車で「波」4月号を開く。筒井康隆「老耄美食日記」、続いて阿川佐和子「やっぱり残るは食欲」。高級外食と家庭料理で朝から腹いっぱいの感じ。

4.1 朝図書館。昼から買い物。書店員Hさんと立ち話。人手不足でたいへんそう。帰りに市議会・県議会議員選挙不在者投票。

へちまクラブ「金曜」の西村貫一や神戸に関する文章は「みなと元町タウンニュース」にて。「金曜」421952[昭和27]6月、表紙の絵は小磯良平)に森於菟「観潮楼の玄関」掲載。



「観潮楼」は千駄木団子坂上の森鷗外の住まい。太平洋戦争空襲で全焼。1950(昭和25)年児童公園として再生、東京都の史跡に指定された。現在は文京区立森鷗外記念館となっている。

 於菟が記憶をたどる。門を入るとやや勾配のある石畳、斜め右つきあたりが玄関。右の柱に小型の釣鐘があり、客が叩く。玄関入れば広い式台があり、一段上の正面が三畳の書生部屋。鐘が鳴らされたら書生が応対する。於菟台湾の大学赴任時にこの鐘を持って行ったが、敗戦後没収された。

 追憶のひとつ。於菟5歳くらい。ある夜、2階からの足音で目が覚める。玄関式台に数人の男性。

……中に小柄の老人が一人、頭は真中から半分以上禿げ、まわりの方に残った灰色の蓬髪が乱れかかる。このおじいさんが「三木さん。帰れない。どうしよう」と泣声を出すのを傍から丈の高い叔父(森篤次郎、筆名三木竹二)が「饗庭さん、大丈夫。今すぐ車が来るから。」となだめている。(中略)老人は泣上戸の饗庭篁村翁で、その外に父や幸田露伴、森田思軒などの姿が見られた。〉

 別の時、玄関脇の廊下で斎藤緑雨から絵札の束(煙草のおまけ)をもらった。

……ふだん父や祖母に無心をする緑雨はせめてもの礼ごころに私のきげんをとったのであろう。廊下を走っている時ぶつかった蓬髪垢面の緑雨が無言のままニヤッと白い歯をむき出したのはゾッとしたが、ピンヘットやサンライスの美しい画札はうれしかった。然し折角の緑雨の好意も祖母が「きたならしい」といって捨てさせられたのは残念であった。〉

 他に鷗外の思い出、歴代書生のエピソード、継母との不和など。

(平野)