4.6 古本屋さんに教えてもらっていたコーヒーと本のイベント、4日に開催であった。今週末と思い込んでいた。友人に詳細を知らせるのにチラシを見て、ようやく気付く。えらそうに教えてあげて、オオボケ。
4.7 雨が降りそうで降らないけれど、風強い、寒い。帽子飛ばされそうな中、買い物。
4.8 朝刊のお天気欄は日本中晴マーク。きれいな青空、山々の緑のなかにピンクの花の集まりがあちこちに見える。勤務場所周辺各家の桜も満開。ミモザを植えているお宅があって、毎年咲き誇る。眼福。花束にしてご近所に分けておられる。
堀啓子 『伝説の出版社 博文館』 筑摩選書 2000円+税
「博文館」は「春陽堂」と並ぶ明治・大正・昭和を代表する出版社。ミステリー読者なら江戸川乱歩や横溝正史が活躍した『新青年』を思い浮かべるだろう。現在出版は日記の「博文館新社」、辞書の「博友社」に受け継がれている。また、東京堂書店、東京堂出版、共同印刷、博報堂の源流にあたる。
大橋佐平は母の「世の人々に尽くすには書籍に関する仕事が一番良い」の教えに従い、越後長岡で出版や書店、新聞など社会のための事業を起こしたが、いずれも不調。上京して始めたのはやはり出版業。1887年(明治20)50歳を超えてから「博文館」を創業。同郷人から書き手・スタッフを見出し登用。社名は初代総理大臣・伊藤博文にちなむ。若くして身分制度を超え、英語を身に着けた伊藤は佐平の出版理念のモデルだった。最初の雑誌は『日本大家論集』。先行の学術専門雑誌や新聞から論文を抜粋し、要約して掲載。原稿料が不要、印刷経費を工夫(少部数印刷製本して配本、売り切れで注文殺到し、現金引換えで卸す)、広告費も安く抑えたから、販売価格は廉価。読者は喜び、大ヒット。だが無断掲載、まだ著作権が整備されていない時代だからできたこと。当然既存出版社は怒り、「悪文館」「泥棒雑誌」と批判した。ジャーナリスト・宮武外骨は「破廉恥雑誌」と激怒した。執筆者にも批判者はいたが、「再録」によって多くの人に読まれることでおおむね歓迎した。結果として著作権の成立が進むことになる。
その後、速記術を使った講演録、写真による日清戦争報道、宗教雑誌、少年雑誌、女子教育雑誌、法律、時事、警察などなど誌名に「日本之~」とつけた新雑誌を刊行していく。いずれも廉価版。読者の寄稿・投稿を促し、読者同士が交流する。1895年(明治28)、『太陽』、『少年世界』、『文藝倶楽部』創刊。文学の様々な分野が確立する。雑誌がビジネスとして成功。執筆者の収入が安定して、その社会的地位も高まる。
読者を既存雑誌から新雑誌に引き込む戦略。たとえば、戦争雑誌は冒険読み物『冒険世界』、さらに『新青年』へと引き継がれる。モダンな「探偵小説」雑誌の登場だ。読者の世代継承であり、同時に編集者も次世代につながる。出版は辞書、日記にも広がる。流通業、印刷、製紙と事業が広がる。
二代目・大橋新太郎はさらに拡大、ビール、生命保険、製紙他多くの企業の重役や理事を兼任した。関係会社は80以上に及び、新太郎は衆議院議員、貴族院議員も務めた。敗戦後の「博文館」解体、公職追放の原因となる。
「博文館」は薄利多売で読者を広げ、活字による娯楽教養を普及させた。儲け第一というわけではない。私財で「大橋図書館」を開設し、図書館学の講座を開催し、後の図書館運営の基礎を作った。また、大学生奨学金支援、雑誌を通じて災害救援寄付を集め、売り上げからも義捐金を送っている。1890年(明治23)、東京堂を設立。小売り書店ながら、地方への取次店として流通システムを作り上げる。
「博文館」発展をとおして、「日本の近代教育がもたらした読むことに貪欲な読者の誕生、それに伴い発展した豊穣な文学世界、および近代出版業の進化について」まとめる。
(平野)時代とはいえ、初期には反則すれすれの技もあった。