2014年10月17日金曜日

放浪記


 林芙美子 『放浪記』 新潮文庫 1947年(昭和229月刊(手持ちは64851刷) カバーは著者自筆色紙より

 192810月『女人芸術』に「秋が来たんだ――放浪記――」を発表。307月改造社から出版、11月「続放浪記」刊。

 林芙美子19031951)。行商の母・義父と各地を放浪。自身もさまざまな職業を経験。
 本書執筆時、芙美子は25歳。生い立ちからのことを綴った自伝小説。貧困、父母への愛、恋愛遍歴、女給仲間のことなどが語られる。平林たい子、辻潤ら関わりのあった作家たちを実名で書いている。関東大震災のことも少し。
 芙美子は貧しさで日々の生活に追われているが、詩や小説を書き、本を読み続けている。

(冒頭で)
 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。……私は美しい山河も知らないで、養父と母に連れられて、九州一円を転々と行商をしてまわっていたのである。……

(終盤で)
 私は生きる事が苦しくなると、故郷というものを考える。死ぬる時は古里で死にたいものだとよく人がこんなことも云うけれども、そんな事を聞くと、私はまた故郷と云うものをしみじみと考えてみるのだ。
 毎年、春秋になると、巡査がやって来て原籍をしらべて行くけれど、私は故郷というものをそのたびに考えさせられている。「貴女のお国は、いったいどこが本当なのですか?」と、人に訊かれると、私はぐっと詰ってしまうのだ。私には本当は、古里なんてどこでもいいのだと思う。苦しみや楽しみの中にそだっていったところが、古里なのですもの。だから、この「放浪記」も、旅の古里をなつがしがっているところが非常に多い。……
 
 神戸にも来ている。
 一緒にいる男、別の女からの手紙の束を隠していた。カフェーで働いて稼いでやっているのに。
……お葬式のような悲しさで、何度も不幸な目に逢って乗る東海道線に乗った。

 明石行き三等列車、神戸で降りてみようと思って、降りた。

 暑い陽ざしだった。だが私には、アイスクリームも、氷も買えない。ホームでさっぱりと顔を洗うと、生ぬるい水を腹いっぱい呑んで、黄いろい汚れた鏡に、みずひき草のように淋しい自分の顔を写して見た。さあ矢でも鉄砲でも飛んで来いだ。別に当もない私は、途中下車の切符を大事にしまうと、楠公さんの方へブラブラ歩いて行ってみた。……

 15歳くらいの時、この町でトルコ人の楽器屋で奉公した。乳母車に女の子を乗せてメリケン波止場を歩いた。
――鳩が足元近くに寄って来ている。人生鳩に生まれるべし。私は、東京の生活を思い出して涙があふれた。

 鳩の豆売りの婆さんと話。海岸通の宿屋に泊まる。

 元気を出して、どんな場合にでも、弱ってしまってはならない。小さな店屋で、瓦煎餅を一箱買うと、私は古ぼけた兵庫の船宿で高松行の切符を買った。……

(平野)
 元町・龜井堂の「瓦煎餅」。
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2014年10月16日木曜日

泉に聴く


 東山魁夷 『泉に聴く』 講談社文芸文庫 1990年(平成24月刊

元本は1972年毎日新聞社刊。

 東山魁夷19081999)、横浜市生まれ、本名新吉。父は船具商・東山商店経営。1911年神戸市兵庫区西出町に転居。入江小学校、神戸二中から東京美術学校。

目次
泉に聴く――序にかえて
青の世界  ひとすじの道  夏のアラベスク
古都礼讃  東と西  素朴について

 荒野を飛ぶ鳥にとって、森の泉が羽を休める場であるように、魁夷は心静かに心の中の泉の音に耳を澄ませる。

 泉はいつも、
「おまえは、人にも、おまえ自信にも誠実であったか」と、問いかけてくる。私は答に窮し、心に痛みを感じ、だまって頭を下げる。
 私にとって絵を描くということは、誠実に生きたいと願うこころの祈りであろう。謙虚であれ。素朴であれ。独善と偏執を棄てよ、と泉はいう。
 自己を無にして、はじめて、真実は見えると、私は泉から教わった。……
 
 年譜では画家として順風満帆であったように見える。美術学校特待生、在学中に帝展入選、優秀証書と奨学資金賞を受けて研究科にすすみ、ドイツ留学。帰国して神戸で個展、賞受賞、美術学校教授の娘と結婚……
 しかし、家族に不幸が次々起こる。長兄の死、父・母・弟の病、父死去。空襲で自宅消失し、本人は37歳で召集され肉弾攻撃訓練。
 戦後、母死去、落選、弟死去。妻と二人だけになる。生活はどん底だった。
 1946年冬、制作のため千葉で間借り。画板を抱えて山を歩くきながら、これまでの年月を回想する。

私は両親の家にいた。それは、やはり土蔵造りの家ではあったが、神戸市の下町の、倉庫の並ぶ海岸近くに在って、この佐貫の町に見るような、重苦しい感じのものではなかった。柱も煤けてはいなかった。ただ、柱時計は、かなり古風なもので、家の人が踏み台に乗って、文字盤の長針を指で廻しながら、ボンボンと音をたてて時間を合わせていた。あの、時計の音と共に懐しいのは、腹に響くような太い汽船の警笛と、小刻みな小蒸汽艇のエンジンの響き。それから、岸壁にひしめき合って揺れている帆柱の、ギイギイと鳴る音である。 

母は繕いもの、入口から土間、台所、井戸、天井は吹き抜け、煮炊きの匂いが2階の子供部屋に……

家の表には、「東山商店」という小さな真鍮の看板が掛けてあって、店の土間には、ペンキの罐、ランプ、轆轤、ロープ、錨などが積み重ねられていた。壁には、汽船や船渠(ドック)の写真、ペンキの色見本、台の上には帆船の模型、隅に大きな金庫(中身は書類だけだったようだ)があった。

魁夷は3人兄第の真ん中、おとなしい素直な子だが「心の中に密室」を持っていた。一人でいることに安息と解放感を感じていた。

……中学生になると、山や海辺に独りで自分を置くことを何よりの安息と感じるようになった。そして、父の反対と母の心配に、幾度かためらいながらも、画家になる道を選んだ――

 山道を登りながら、私はずいぶん古い回想、いわば私の人生の出発点とも云うべき頃のことから、一歩一歩、辿ってくるのだった。時々、途切れたり、横道へそれたりした。息のはずむ急な坂になったり、快い緩やかな道であったりした。暗くて寒々とした斜面をかなり歩くと、明るく陽の射した曲角へ出る時もあった。(略)
 こうして、いま、私は九十九谷を見渡す山の上に立っている。ここへ私は偶然に来たとも云える。それが宿命であったとも考えられる。足もとの冬の草、私の背後にある葉の落ちた樹木、私の前に、果てしなくひろがる山と谷の重なり、この私を包む、天地のすべての存在は、この瞬間、私と同じ運命に在る。静かにお互の存在を肯定し合いつつ無常の中に生きている。蕭条とした風景、寂寞とした自己、しかし、私はようやく充実したものを心に深く感じ得た。

 完成した絵は「残照」。第3回日展で特選。政府買い上げとなった。
(平野)

2014年10月15日水曜日

日本のアウトサイダー


 河上徹太郎 『日本のアウトサイダー』 中公文庫 1978年(昭和5312月刊

元本は19599月中央公論社刊。第6回新潮社文学賞。

中原中也  萩原朔太郎  昭和初期の詩人たち  
岩野泡鳴  河上肇  岡倉天心  
大杉栄  内村鑑三  正統思想について

解説 高橋英夫
 
 コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』(1956年)に刺激された。

 アウトサイダーという言葉は、別に事新しい概念ではない。インサイダーの反対語、つまり常識社会の枠外にある人間の謂で、アウト・ロウ、疎外された者、異教徒、異邦人、これ等のわれわれにお馴染みの文壇用語はすべて字義的に一応妥当するのである。或いは、叛逆、虚無、頽廃の徒も、結果的にこの仲間に入れていいであろう。……

 西欧社会のキリスト教「正統主義」のような概念が日本にはない。
 
……インサイダーを定義すれば、それは大体正統主義、オーソドクシイの意に解していいと思う。正統は伝統と無縁ではないが、正確には別物である。伝統とは過去にあって自分の外に繋がるものであるが、正統は直接自分の中にあるものである。そして明治以来のわが文化の混乱、知識人の不幸は、正統を持たないことにある、と簡単にいい切れるようである。強いてこれに当たるものを求めれば、卑近なことでは、明治の立身出世主義をその代表と見做すこともできよう。何故なら、わが世紀末的頽廃詩人も、社会改革家も、宗教家も、皆これに反抗して立った点で揆を一にするからである。ところが大正期においてわが国運の上昇は一応峠を越すのであるが、それとともに立身出世主義にも現実的にやま(、、)が見えた。そこでアウトサイダーは精神的に共通の枠を失ったのだが、しかもそれが思想の安定を齎さないで、かえって混乱を増した。つまりアウトサイダーは明確な表現様式を失い、それを得るためにさらに高級な、微妙な範疇を手にしなければならなくなったのだ。中原中也の苦悶は正しくそれにほかならない。

(平野)

2014年10月14日火曜日

私の詩と真実


 河上徹太郎 『私の詩と真実』 講談社文芸文庫 20076月刊  解説 長谷川郁夫

 1953年(昭和28)『新潮』連載、翌年1月新潮社(一時間文庫)より出版。第5回読売文学賞受賞。

 河上徹太郎19021980)、長崎市生まれ(本籍は山口県岩国市)、文芸評論家。父(日本郵船重役)の転任で6歳から14歳まで神戸(諏訪山小学校、神戸一中)。東京府立一中、一高(野球部在籍、ピアノを始める)、東京帝国大学経済学部。小林秀雄や同人雑誌を通じて、大岡昇平、中原中也、井伏鱒二、堀辰雄、三好達治らと親交。アンドレ・ジイド全集企画、ポール・ヴェルレーヌ翻訳、音楽評論も。

「詩人との邂逅」

 まだ年よりでもないがさりとて若くもない私の年頃で、青春とは一体何であろうか? ……(略)つまり人は、その青春にあたって先ず情熱を注ぐことは、激しい自己鍛錬によって自分の感受性の形式を確定することである。そしてこの形式の独自性の中に、初めてその人の個性とか資質とか呼ぶべきものが芽生えるのだという風に私は考えている。(ボードレールの詩「私の青春は嵐吹く闇夜に過ぎない~」を引用)人は歳と共に澄んでゆくものである。外に手はない。そして、省みて自分の青春を分析するなど、実に不可能なのである。

 若い頃、日課として東京の街を散歩し、「都会風景の一角の印象を得手勝手な裁ち方で切りとっては蒐集」した。最も好きなのが、「冬の晴れた夕空の下の東京の街」だが、風景から「あらゆるセンチメンタリズムを排斥する」という戒律を課した。

 当時私がものを見る眼は、専ら『富永太郎詩集』一巻によって教えられていた。私はこの詩人と東京一中で同級であったが、彼は当時夭折したばかりで、遺稿集が届けられたのであった。しかも私は生前彼と文学づき合いを全然していなかったので、その繊細な感受性は、専らこの二三十篇の活字になった詩業からのみ学びとったのである。人は作品からは清潔な影響を受けることしか出来ない。私はこの幸運を今では感謝している。

 私は透明な秋の薄暮の中に落ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。

 で始まる「秋の悲歎」と題する富永の散文詩は、彼の死の前年「山繭」といって小林秀雄たちがやっていた同人雑誌に載ったものだが、文学書をまだ多く知らなかった私は、この余り鮮かな肉感と造型性を盛った表現に接して、驚歎したのであった。私は直ちに、こういう実感を実習すべく、街中をぶらつき歩いた。私の感覚の色調は富永のそれよりやや明るいのであったが、初冬の首都の到る所に、そういう情感は容易に手に入れることが出来た。

 富永の詩を実感するため、一人で行きあたりばったりに歩いた。

 然しこうやって風景を採集している私は、或は我々は、決して呑気な美的鑑賞家ではない覚悟を持っていた。それはいって見れば、ものを見る眼を純潔にし、感傷による歪みを排し、そして知的な、人生批評的な要素を入れた、全人的態度で臨むといった野望であった。つまりそれはあまりに知的に低かった当時の文壇への反抗、それからひいては一般社会の俗物に対する嫌悪、そういったものに直結している感情であった。……

 文学体験、知的遍歴を語り、若き日決意した評論家としての覚悟を述べている。

(平野)

2014年10月13日月曜日

チャイナタウン ヨコハマ


 陳立人(チェンリーレン)写真・文 
『チャイナタウン ヨコハマ』 徳間文庫 1985年(昭和6010月刊

 1952年神戸市生まれ、写真家、「陳舜臣アジア文藝館」顧問。

目次

思想華人街  海風揚紅巾  明月照牌楼  
黄雀鳴関廟  満天望夏郷  地図

チャイナタウンの歴史、関帝廟、風俗・社会、食、文化、街のあちこちの風景。異国情緒にあふれる街の表から裏までをカメラで捉える。神戸の南京町の思い出も交えて。

華僑社会
 日本にいまの形のような中華街ができたのは徳川時代のはじめです。長崎に唐館十三戸の記録があります。それが日本における最初の華僑社会だと考えられています。その後は明治の初めごろに、横浜や神戸の港まちに中国人がおおぜい上陸しました。(略)

牌楼
……昭和二十五年、敗戦後、ごった返した中華街の大通りを整備し、戦災でなくなった街のシンボル・牌楼を建て直しました。それは大通りの西端にある朱い門です。(パイロウ、街全体の看板。20年後の昭和45年に西門、48年東門、50年北門、52年に南門)
 世界中のチャイナタウンは雑然とした中国の下町なのです。彼らは外国に住んでいますが、牌楼の内側では、中国にいると思っているのです。横浜中華街の牌楼の内側には中国があるのです。

 チャイナタウンが観光地化して人があふれると、それまで支えてくれていた常連さんが行きづらくなる。

中華街
 中華街で一番心配していることは、食事だけの街になってしまうことです。街全体にひそんでいる中国の文化や芸術などの存在感がなくなることです。
 中国五千年の文化をたずさえて一世たちが苦労して築きあげてきた街が、食という、これも中国文化のひとつですが、ただそれだけで終ってしまわないように注意しなければなりません。

(平野)
 立人さんには『ほんまに』第16号の「アジア文藝館」取材でお世話になりました。

2014年10月12日日曜日

映画少年 淀川長治


 荒井魏(たかし) 『映画少年 淀川長治』 岩波ジュニア新書 20008月刊(手持ちは0142刷) カバー他イラスト 也寸美

 淀川長治190998年)神戸市兵庫区西柳原の生まれ。生家は繁華街・新開地から徒歩20分ほどの座敷料理屋。兵庫は古くからの港町で、北前船など商船の拠点。

 長治の母は、夫とともに新開地の映画館で「活動写真」を見ている最中に産気づいた。映画は「馬鹿大将」というドン・キホーテをもとにした喜劇。
 裕福な家の跡取りとして過保護に育った。祖母、母、二人の姉に芸者さんたちに囲まれた繊細で内気な少年。密かな楽しみは廊下の戸袋に隠れること。小さな穴から入ってくる光が壁に当たって、外の光景が映っているのを発見する。

 映画は3歳頃から両親に連れられて見ていた。7歳になると一人で映画館、3本立てを週に3回。映像の素晴らしさ、物語に引きつけられた。。
 神戸三中に入っても映画館通いは続く。当時は中学生一人で映画館に行くことは禁止。監視に来ていた先生が映画に感動しているのを見て話しかけたり、先生にいい映画をすすめたり。ついに三中は映画館に一人で入ることを許可。長治は全校生で鑑賞する映画の選定を任された。
 試験のための勉強に熱は入らなかったが、英語は得意だった。アメリカの俳優にファンレターを書くために勉強した。映画によって、人間愛、恋愛、労働の尊さを知った。映画雑誌で各地の映画少年たちと交流するようになった。楽しんで学ぶことを心がけ、終生、「僕の学校は映画館」と語っている。

 進学で上京したが、大学には行かず映画館。

……映画は人間の鏡、人間の生きた教科書なんです。人間の美徳にしても、悪徳にしても、人間社会の問題にしても、自然に鏡となって写しだされてくる。そういうことを、僕は子どものころから教えられた。だから、こんな勉強、他ではできないと思った。大学で四年間勉強するなら、三年間映画を見た方がずっと勉強になると思った。……

 映画の世界で仕事をしたい。愛読誌『映画世界』に編集員募集記事を発見する。

 荒井は当時毎日新聞学芸部編集委員。出版局在籍時に淀川の著書を編集。
(平野)

2014年10月11日土曜日

電氣ホテル


 吉田篤弘 『電氣ホテル』 文藝春秋 1750円+税

200708年『別冊文藝春秋』連載。

 まず登場するのは二人の詩人。上田オルドバ、上田シャバダ。詩人タッグ〈ブラック〉を結成。オルドバは停電研究、猿の中也と調査旅行。中也は「上田」「停電調査」「果物」3つの言葉を話し、毛糸の靴下を好む。泊った宿屋の番頭、物分かりよく、町の歴史に名物海老話、さらにオルドバの本『停電論』を一読理解。翌朝、オルドバと中也がタクシーに乗って「駅まで」と言えば、運転手は同じ言葉を2度繰り返す。空間飛び越え映画館に。スクリーンの画面にタイトル〈電ル〉。シャバダは中学の四十ヶ原先生にすすめられてナレーター稼業。元吊輪の選手、先生辞めてタクシー運転手を経てバーの主人。シャバダも旅に出たいが仕事で行けぬ。アパート帰って風呂から出れば、見たこともないキャシャな女性、「ようこそ、付いてきて」と言われて2階へ。
 闘牛士風の男二人、フィルム手配師。モンドリアンは長身・痩身・病身。シノゴノは丸型体型だがダンサーで身軽。運搬は駱駝シンガリ、しゃべる、唾吐く、怒りんぼ。……

次々出現する奇人変人怪人怪物、ドタバタの様相。言葉遊びに連続失踪事件に空間移動、奇想天外ストーリー。
 次第に〈クラフト・エヴィング商會〉の術中に引っ張り込まれて行く。私の堅い脳みそは、寅さん的喜劇と勧善懲悪時代劇しか想像できない。前衛演劇と思って読む。

 終り近くになって〈電氣ホテル〉が実在したとある。いやいや『ないもの、あります』の〈クラフト・エヴィング〉、騙されてはいけない。

失踪事件の謎を追っていた中田(探偵、しゃべる探偵犬・終列車同行)に、ビワブキ(図書館司書)が推理を披露。麻酔を打たれた女性たちは2階にトリップしている、ホテルのオーナーによって頭だけが吸い取られている、と。

「ホテルの?」
「電氣ホテルだ。……鸚鵡返せ」
「は? ……鸚鵡返しは知っていますが、オウムガエセなんて言葉はありません」
「さぁ、そこだ名探偵。そうした存在しない言葉が出現するときこそ要注意なのだ。何故なら、私は言葉をねじ曲げてでもそいつを言いたい。だからよいか。今すぐ速やかに鸚鵡返せ」
「何をです?」
「電氣ホテルだ」
「電氣ホテル?」
「そう、その調子だ。今のはいい鸚鵡返しだったぞ。分かるか、中田君。我々が執拗に言葉をやりとりすることで、存在しない言葉や存在しないものが徐々に立ち上がってゆく。そもそも、推理とはそうしたものではなかったか。そして、次々と立ち上がってゆく支離滅裂なそれらの中に、じつは確たるものが混在している。それを見逃してはならん。今ここで一例をあげれば、電氣ホテルだ」
「電氣ホテルが?」
「いいぞ、中田君。その調子だ。こうして我々が電氣ホテル電氣ホテルと連呼すれば、あたかも存在しないようなそのホテルが、じつのところ、下谷区下車坂町十一番地に存在していたことが判明する。これはデタラメではなく事実なのだ。(略)

平野)
 最後まで読んだら〈登場人物名鑑〉が付いていた。最初に気づけよ!
「電氣ホテル」のパンフレットまで掲載している。やっぱり実在? 
 あかんで、信じたら。「ないもの」簡単に作れる人らやで。
 こっちは騙されるのを楽しんでるし。
 カバーはずすと、文字が並んでいる。……――第二幕――幕間劇……とある。虫眼鏡で読む。
 それでも「実在かも?」と「日本観光史」HPを見たら〈上野〉の年表に「電気ホテル」の名称があった。信じる?
http://web2.nazca.co.jp/xu3867/index.html

 ヨソサマのイベント

 百窓文庫の文化教室「北野吟行句会」
113日(文化の日、月曜日)10時から15時頃まで
北野・浄福寺  参加費1500
講師 俳人・津川絵里子
 詳細は下記を。
http://hundredswing.wordpress.com/2014/10/09/ginko-2/

「daily‐sumus2」「メリーゴーランド小さな古本市」の案内。参加店のなかに「かいぶんどう古書部」の名がある。
http://sumus2013.exblog.jp/