2015年5月17日日曜日

書庫を建てる


  松原隆一郎 堀部安嗣 

『書庫を建てる  1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』

新潮社 1900円+税

目次
記憶のたたずまい 松家仁之
はじめに
家を建てるわけ 2008.092011.06
どんな家を建てるのか 2011.062012.05
建ち上がる家 2012.052013.03
工事現場から
おわりに

 施主・松原は1956年神戸生まれ、社会経済学者、東京大学大学院総合文化研究科教授。
 建築家・堀部は1967年横浜生まれ、京都造形芸術大学大学院教授。
 本書は学者の蔵書を収めるための住宅を建てる話だから、本屋では「建築」の棚に入っている。どんな家にしたいか、資金のこと、設計のこと、工事のこと、職人さんのことなど。
 本書の内容を知るまでは、私は「書庫」に興味を引かれたが、読むというところには気持ちが行かなかった。松原の話を聞く機会があり、そのとき本書のことにも触れた。私はその話で本書を読みたいと思った。
 松原はなぜ「書庫」を建てようと考えたのか。ただ蔵書を収蔵するためだけではなく、「別の理由」があった。「鎮魂」。

《その理由は、「長男が実家から離れて職を持つとき、『家』はどうなるのか」にかかわっています。ここでいう「家」とは物理的な実家を指すとともに、先祖からつづく「イエ」も意味します。墓や仏壇に象徴されるようなイエは、長男が実家から離れてしまったらどうなるのか。多くの長男が共通に抱えるこの問題に、私なりに出した答えが「実家を売って得た資金で、仏壇を主(あるじ)とするイエを新築する」というものでした。》

 父親が亡くなり、松原は実家や仏壇を妹家族と相続しても、「イエ」の由来を知らない。古い写真(船の進水式らしい)を見つけても詳細が分からない。松原は、祖父の成功と苦闘の話を聞くことができなかったことを「一生の不覚」と、詫びる。
 祖父は山口出身、フィリピンに渡りバナナ農園で働くが、1年で帰国して神戸市兵庫区に住む。事業を起こし成功(布の防水加工)、東灘に大邸宅を構えるほどになるが、戦争で原材料が配給になり商売替えを余儀なくされる。船による運輸業に転ずるが、これも戦争で船を徴用される。戦後、祖父は製鉄業に進出する。松原の家の記憶はこの工場経営の頃から。松原は工場を継ぐ予定で東大工学部に入学するが、その工場は不況で大企業の傘下になり、祖父は邸宅も手放す。

《私がいまなお胸の疼きを覚える松原家の「斜陽」は、この青木の邸宅を祖父が手放した件に集約されます。物的存在として愛着ある「家屋」を手放すことに、私は耐え難い痛みを感じました。》

祖父が亡くなって父は大きな資産を相続したが、「イエ」については何もしなかった。

《私は、モノとしての実家の建物や近所の景観に人並み以上の執着を持っています。その理由は、こうです。過去について喋るとき、それを事実として承認してくれる他人がいて、私の記憶は妄想ではないことになります。そしてイエは、最低限の事実を事実として認定してくれる人の集まりです。》

祖父は亡くなる前、松原に墓と仏壇を守るように頼んだ。相続問題、祖父の供養などで松原は父親はじめ家族と疎遠になる。そして、父が亡くなる。

《私が喪ったものが、生家以外にもあります。青木(平野註・おおぎ)や魚崎の浜の風景です。神戸市は戦後、山を崩しその土砂で海を埋め立てました。それにより、青木の家の「て」の字型の防波堤も埋め立てられフェリーボートの発着所となり、私たちガキどもが「テンコチ」を釣った魚崎の浜は、コンクリートの塀のみを路上に残す港湾地帯となりました。そのうえ酒蔵の黒塀も、多くが震災でなくなってしました。(中略)

 ともあれ父が死んだ後、妙に大きな家屋と「墓と仏壇は守ってくれや」という祖父の声が私には残りました。それ以外には祖父の代からのと母方の写真が段ボールに二箱、そして仏壇。それらがどんな歓喜と屈辱を物語っているのか、私には十分には理解していません。虚構を解体し、写真から声にならない声を聞き取ることが松原家の死者たちの魂を鎮める弔いとなるのではないか。この課題もまた、私が継ぐべき「イエ」の一部となったのです。》

 松原が区役所に父親の死亡届を出したとき、父の出生届が兵庫区東出町で出されていたことを知る。祖父がフィリピンからたどり着いた町。松原はその町を歩いてみる。JR神戸駅南西にある川崎重工(昔は川崎造船所)の近くで、下請け工場が密集し、工場労働者、港湾労働者が住んでいた町。ほぼ同時代に横溝正史や東山魁夷が住んでいた。中内㓛の生家もあった。しかし、松原は祖父の若き日について想像をすることしかできない。

 松原は父の遺産を整理し、仏壇を東京に持って行くことにする。
 20132月、東京都杉並区阿佐ヶ谷の松原家に「書庫と仏壇の家」が完成した。

(平野)