■ 小佐田定雄 『米朝らくごの舞台裏』
ちくま新書 860円+税
小佐田は1952年大阪市生まれ、落語作家。桂枝雀に「幽霊(ゆうれん)の辻」を提供したのが最初、創作数は200席超。本書の「あとがき」執筆中に桂米朝の訃報を聞いた。
《最初に米朝師とお目にかかったとき、師はまだ五十歳になっていなかった。それでも、すでに「大御所」という貫禄が備わっていた。入門して間なしに頼りにしていた師匠連を次々と喪い、やむを得ず先頭にたって走り続けなくてはならなかったことによって自然と身に付いた「重み」である。米朝師に限らず、「四天王」と呼ばれた六代目松鶴師、三代目春團治師、五代目文枝師も、実年齢よりも年長に見えた。
四天王の中で米朝師の果たした役割は、「上方落語」という芸を関西ローカルの下脳から全国区の芸にしたことである。これは、師が生粋の大阪人でなかったことが幸いしていると思う。コテコテの大阪人だと、よその土地でわかりにくい言葉や風習でも、「これは、昔からこうやさかい変えんでもええんや」とそのままで押し通したことだろうと思う。大陸で生まれて兵庫県姫路市で育った米朝師は、「上方落語」を距離感を持って冷静に見ることができたのではないだろうか。
「これは通じへんさかい、説明したほうがええな」とか、
「ここは言いかえても、大阪の味は損なうことはないな」とか判断したことによって、大阪以外の土地の人や、大阪でも古いことを知らない若い世代に伝えることができた。私自身も、米朝師がいなかったら枝雀さんとも出会わなかっただろうし、上方落語にこんなに深入りすることはなかったろうに……と思う。》
小佐田による噺の分析もある。
たとえば、「はてなの茶碗」について。
茶道具屋の店先、安物の茶碗(キズもないのにお茶が漏れる)を持ち込んだ油屋と受け入れを拒否する番頭がもめている場面で、道具屋の主人「茶金さん」が言う最初の一言で彼の権威と品格を現している。
《「店が騒がしい」の一言が、日本第一の文化人・茶金になっている。》
その茶碗が千両で売れて、五百両だけ油屋に渡す時の台詞。
《「残った五百両、この頃この京にもずいぶん困ってはるお方が多いと聞いている。で、私はこの金でできるだけ施しをして差し上げたい」と言う台詞。「して差し上げたい」というへりくだった姿勢こそが、ほんとのボランティアの精神だと思うのだが、これは余談。》
この噺は《「地の分」が効果的に使われている噺だ。》とも言う。
《――台詞と思ってきいていると途中からスーッと地の文に移行していくし、地だと思っているといつの間にか台詞になっている。
例えば茶碗が帝の手元に届いて帝が感心して、
「はてな、おもしろき茶碗である……と筆をお取り上げになりますと」というくだり。(中略)
いまひとつはサゲ前。
「『えーらいやっちゃ、えーらいやっちゃ、そこの家じゃ、担ぎ込め』と音頭とってんのはこの間の油屋」というくだりで、米朝師は「音頭とってんのは」で地の文から台詞に移行して「この間の油屋や。なにしてんねん、あの男」という型で演じることもある。(後略)》
小佐田が落語作家専業になるときに勧めてくれたのが米朝さん。
(平野)