2015年11月17日火曜日

神戸・続神戸・俳愚伝


 西東三鬼 『神戸・続神戸・俳愚伝』 
出帆社発行 路書房発売 19759月刊


 講談社文芸文庫版(2000年)を持っているのに。

 帯、五木寛之。解説、大岡信。

《昭和十七年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱出した。》

 三鬼は歯科医だった。33歳のときに俳句を始め、すぐに新興俳句の代表的存在になる。38歳で歯科医を辞める。大病を患った。40歳、京大俳句事件で検挙され、起訴猶予。42歳、東京を出奔して神戸に。家族とも俳句とも別れた。不倫関係にあった女性に頼まれて子を産ませた。彼女の故郷に同行して親に挨拶までしている(後、この女性を妻にした)。女性にモテた。
 神戸でアパートを探すために、バーで働いていそうな女性の後について行く。三鬼の経験では、バーにはアパート住まいの女性がいる。考えどおり、その女性がアパートを兼ねたホテルを教えてくれた。

《それは奇妙なホテルであった。

 神戸の中央、山から海へ一直線に下りるトーアロード(その頃の外国語排斥から東亜道路と呼ばれていた)の中途に、芝居の建物のように朱色に塗られたそのホテルがあった。》

 同宿の人たちは、日本人12人の他、ロシア人、トルコ人、エジプト人、台湾人、朝鮮人ら。夫婦はひと組、あとは独り者で、生業不明者や水兵や兵役忌避者など、女性の多くはバーで働いていた。三鬼は当時商社マンだったが、皆から「センセイ」と呼ばれた。彼らはセンセイに「種々雑多な身辺の問題」を持ち込んでくる。三鬼は彼らの話を聞いてやり、厄介事につき合う。
 雑誌連載中に告白。「神戸」の話を、「これからも書くのだが、何のために書くのか、実はよく判らないのである」、読者のためならフィクションを書くだろう、事実の羅列しているのは「読者の一微笑を博したいのでもないらしい」と。

《かくして、ようやくおぼろげながら判って来た執筆の目的は、私という人間の阿呆さを、公開する事にあるらしいのである。だから、私のくだくだしい話の数々は、何人のためのものでもなく、私にとっても恥を後世に残すだけの代物である。しかし私は、わたしが事に当るたびに痛感する阿呆さ加減を、かくす所なくさらけ出しておきたいのである。》
 本書は自伝的作品で、どこまで事実かは不明。でもほとんど事実なんでしょう。

 同社の〈新刊案内〉がはさまれている。


 
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 (平野)