■ 鶴見俊輔 文 佐々木マキ 絵
『わたしが外人だったころ』 福音館書店 1300円+税
1995年7月、月刊『たくさんのふしぎ』として出版。
鶴見は16歳のときアメリカに渡った。英語がしゃべれず、学校の試験は白紙で出していたが、「3か月たつと、突然に日本語が消えました」。
同級生の家で家族として受け入れてもらえた。
《アメリカという国は、ちがうところから来た人たちがおたがいに約束をして、その約束をまもって国を動かしてゆくことを理想としているので、そのやりかたが家庭をつくるときにも、自然に受けいれられています。》(ただし、その約束は原住民や黒人に対しては守られず、今もアメリカの大問題として残っている)
日米開戦を友人が知らせてくれた。
《「戦争がはじまった。これから憎みあうことになると思う。しかし、それをこえて、わたしたちのつながりが生きのびることを祈る」
と言いました。》
鶴見は敵国人として警察に拘束されるが、人権は保障され、獄中で卒業論文を書くことができた。捕虜交換船で帰国する。
《日本が戦争に負ける時、負ける国にいたいという思いが、つよくわたしの心の中にうごきました。》
日本で鶴見を待っていたのは徴兵検査。ジャワ島で通訳の任務に就くが、病気で敗戦をベッドの上でむかえる。なぜ自分は生き残ったのか、その理由がわからない。自分が何かをしたから死ななかったというわけではない。「なぜ自分がここにいるのかよくわからない」。その気持ちはずっと続いていて、「今ではそれが、わたしのくらしをささえる力になっています」。
鶴見は、アメリカで英語を話し英語で考えていたし、アメリカの人は鶴見を受け入れてくれていたが、外人だった。日本に戻ると、自分を外人だと感じた。
《今は、わたしは外人ではないのか。自分の底にむかっておりてゆくと、今もわたしは外人です。地球上のさまざまな外人にとりまかれている、日本人の中の外人です。そこから考えると、この本の題から、わたしは、はみだしています。》
日本人も他国の人から見れば外人。外人=世界の人たちとのつき合いはますます深まる。
(平野)
明日6日19時、トンカ書店10周年記念イベントのひとつ、平野トークです。『海の本屋のはなし』で書かなかった〈本屋のはなし〉
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