■ 西村京太郎 『十五歳の戦争 陸軍幼年学校「最後の生徒」』 集英社新書 760円+税
ミステリー作家が自伝的に戦争と戦後体験を語る。1930年生まれの作家(本名・矢島喜八郎)は陸軍幼年学校出身だった。
第一章 十五歳の戦争
第二章 私の戦後
第三章 日本人は戦争に向いていない
昭和20年2月から中学生は軍需工場に動員された。食糧は不足し、空襲が激化。腹を空かした矢島少年はいろいろ考えた。19歳になれば皆兵隊にとられる、初年兵はやたら殴られるらしい、早くから兵隊になった方がトク、少年飛行兵募集の栄養補給十分・500キロカロリー多いの宣伝に惹かれるがすぐに戦場行き、陸軍幼年学校なら大将になれるかもしれない。
3月10日東京大空襲、4月1日東京陸軍幼年学校入学。49期生で、これまでよりも人数が増えて360名。この49期生から学費免除、逆に給料月5円支給されることになった。
《私は、てっきり、エリートだから厚遇されたのだと、単純に喜んだのだが、全く違っていた。/本土決戦が近づいたので、私たちも、兵籍に入れられたということである。(中略)学生ではなく、兵士になったのである。》
本土決戦、天皇を守る決意だったが、沖縄戦、広島、長崎……、8月15日玉音放送、矢島少年が帰宅したのは8月29日。学校(兵隊)生活は5ヵ月だった。
第二章では戦後まもなくの世相を紹介しながら、公務員生活、いろいろな仕事をしながらの懸賞小説応募生活を語る。新人賞、江戸川乱歩賞を受賞しても売れない時代が続いた。トラベルミステリーでの活躍が始まるのは乱歩賞から13年後、48歳。
第三章は、体験から得た戦争・平和論〈日本人は戦争に向いていない〉。
第一次世界大戦以来、戦争は巨額な戦費、戦車・航空機など大量の新兵器など国家総力戦にならざるを得ないのに、日本は精神論で作戦を立てていた。兵站(前線にいかに無事に食糧・兵器を補給するか)も真面目に考えていなかった。戦争に向いていない理由をまとめている。国内戦と国際戦の違いがわからない。現代戦では死ぬことより生きることが大事なのに、日本人は死に酔ってしまう。戦争は始めたら一刻も早く止まるべきなのに、日本人はだらだら続けてしまう、などなど。
《勝算なしに戦争を始めた。/敗戦が続いたら、和平を考えるべきなのに僥倖を恃んで特攻や玉砕で、いたずらに若者を死なせてしまう。/終戦を迎えたあとは、敗戦の責任を、地方(現場)に押しつけた。/戦後は、現在まで戦争はなかったが、原発事故があった。/その時も、虚偽の報告を重ね、責任を取ろうとせず、ひたすら組織を守ることに、汲々としていた。/これではとても、現代戦を戦うのは、無理だろう。/良くいえば、日本人は、平和に向いているのである。》
(平野)矢島少年はどうすれば一番トクか考えたが、指導者は最後まで精神主義だった。
森村誠一、内田康夫、赤川次郎は新聞に投稿して、反戦・平和について持論を述べる。西村を含め皆ミステリー作家。殺人事件を扱うことは、証拠・証人など事実を論理立てて積み重ねていく作業が必要。被疑者は国家権力に拘束される。全体主義国家なら権力によって罪と罰が決められてしまうだろう。ミステリーは民主主義のもとで成長・発展すると言われるが、彼らはそのことを意識し、理解している。日本でもミステリーが発禁・絶版になった時代があった。
西村の本名・喜八郎は当時日本一の金持ちと言われた大倉喜八郎にあやかった。神戸では「大倉山公園」の名が残る。