2018年12月16日日曜日

鶴見俊輔伝


 黒川創 『鶴見俊輔伝』 新潮社 2900円+税  
装幀 平野甲賀


 哲学者・鶴見俊輔(19222015年)の評伝。
目次
第一章 政治家の家に育つ経験 一九二二三八
第二章 米国と戦場のあいだ 一九三八四五
第三章 「思想の科学」をつくる時代 一九四五五九
第四章 遅れながら、変わっていく 一九五九七三
第五章 未完であることの意味 二〇一五
 
 鶴見俊輔は祖父・父とも有名政治家という家に生まれた。その重圧か、小学生時代に不良化、中学は不登校。自殺未遂、精神病院入院も経験。1937年、父は海外の講演に連れて行き、アメリカハーヴァード大学進学の手はずをつける。予備校の勉強で苦労するが、38年ハーヴァード大学哲学科入学。41年日米開戦。42年敵国性人として拘留され、収容所で論文を作成し、卒業を認められた。日米交換船で帰国。海軍軍属通訳でインドネシアに。結核、腹膜炎で療養中に敗戦。戦後、大学教員(60年安保決議に抗議して東工大辞職、70年機動隊導入不同意で同志社大辞職)。安保闘争、ベ平連、九条の会など社会運動、「思想の科学」や共同研究、ハンセン病施設支援や雑誌「朝鮮人」刊行、それに膨大な著作など、多方面で活動した。大衆文化、サブカルチャーにも理解の深い人だった。

 黒川は雑誌「思想の科学」編集委員を経て、99年作家デビュー。父は鶴見のサークル活動やベ平連を支えた人で、黒川も幼少時から鶴見を知る。鶴見の著作を編集、まとめている。
 鶴見の臨終は2015720日午後1056分、京都市内の病院。故人の遺志で密葬になる。黒川が鎌倉から斎場に到着したのは721日午後10時。家族を含め5人が斎場に泊まった。子息・太郎と鶴見俊輔をはさんで三人ふとんを並べた。

……彼は、ときおり父との交信を試みるかのように、じっと、その人の額にてのひらを当てていた。子どものときから、眠っている父親にむかって、ずっと彼が続けてきているしぐさのようにも見えた。/私は、一、二度、指先でほんのしばらく、この人の額に触れたが、自分のしぐさがひどく不自然なものに思えて、それ以上はできなかった。なぜなら、私は、鶴見俊輔が他者との身体接触をしたがらない人だと、かねてから感じていたからだ。(中略、他人の肩をたたいたり、自分から握手をしない)むしろ、戦争中に憲兵から殴られた話を書くときなどにも、「なぐられるということは、いやなことで、私は、体を他人にさわられるのでさえひどくまいってしまう」(鶴見俊輔「戦争のくれた字引き」)といった書き方になる。ダメージとしては「さわられる」ことが第一で、「なぐられる」ことでの物理的な痛みは副次的なものだと、そのように言っているかのようでもあった。〉

(平野)《WEBほんまに》連載3本、更新しています。