2024年7月23日火曜日

つげ義春が語る マンガと貧乏

7.18 芥川賞・直木賞決定。受賞者3人みんな関西ゆかりの方々。ヂヂ推し(候補作で唯一読んだ)『われは熊楠』は残念。

 内科診療所に行くと、受付の人が「○○先生(主治医)のことはご存知ですか?」と真剣な表情でおっしゃる。ヂヂは一聞いて十知る賢者ではないが、三くらい先は想像できる。早い話が「早合点、あわてもん」。ヂヂより年上の先生だから覚悟を決め、次に発せられるであろう最悪のことばに身構えた。「自転車でこけて骨折して休診です」。

 海文堂時代のバイト君への連絡、ツテをたどるが、なかなか困難。

7.19 久々孫電話。妹は晩ご飯お腹いっぱい食べて、既に就寝。姉が夏休みの宿題や学校のことを教えてくれる。本を見ながらあやとりの新技披露。

7.20 ヂヂ、71歳誕生日。旧知の人たちからSNSでメッセージいただく。ありがとう。家人とワイン飲んでごきげん。

7.21 「朝日歌壇」より。

〈一時間紀伊國屋前で待っていた携帯など無き半世紀前 (高岡市)梶正明〉

 

 『つげ義春が語る マンガと貧乏』 筑摩書房 2300円+税



 つげ義春1415歳くらいのこと。そば屋で働いていて、赤面癖が進行、人に会うことが苦痛になる。マンガ家になろう、一人で空想し好きな絵を描いていられる商売、と思った。手塚治虫に会いに行った。昭和30年頃(つげ18歳くらい)貸本マンガを描きだす。

……月に一冊のペースで、長篇一二八ページですかね。五、六冊はそんなふうで、やがて三ヵ月に一冊とか……。(略)読者に受けようとかいうより、自分のことを考えていましたね。それで食えるか食えないかになるわけですから。(略)〉

 娯楽ものを描くことが苦しくなった。ペンが進まず、半年に一冊のペース。食べていけない。マンガをやめようと思って、履歴書持って歩き回る。青林堂の社長が水木しげるの手伝いを世話してくれた。 (19724月のインタビューより)

 貸本マンガ以来のマンガ家生活。娯楽マンガか、我が道を行くか。つげは、我が道、を選んだ。ファンがたくさんいて、作品を待っているけれど、あくまでマイペース。

 戦後マンガ出版の歴史も語られる。私の世代は週刊マンガ雑誌創刊だが、少し上の世代は「少年」「冒険王」など月刊誌。昭和27年「少年」で手塚治虫「鉄腕アトム」連載開始。その上の世代では「漫画少年」が人気、手塚の「ジャングル大帝」連載。同誌には読者が自作マンガを投稿。篠山紀信、筒井康隆、横尾忠則、黒田征太郎らの名があるそうだ。

(平野)