■ 陳舜臣『青雲の軸』 集英社 その2
第2部、1941(昭和16)年3月、俊仁の大阪外語学校印度語部合格から始まる。この年12月、ついに対米英宣戦布告。
中学では軍隊式教育だが、上級学校にはまだ「自由のかけら」が残っていた。
《だから、中学から上級学校への進学は、少年たちにとっては、大袈裟にいえば、地獄から極楽へのエスケープであった。》
台湾から日本に受験に来る同胞たちとの交流があった。陳家が彼らの世話をした。台湾では教育でも差別を受けていた。台湾の入学試験でも日本人受験生が優遇され、優秀な台湾人は門戸を閉ざされていた。日本の学校を受験したほうがマシだった。受験生のひとり、李騰志(のちに台湾の指導者になる人)と親しくなる。
《「日本に来て、ちょっとふしぎに思ったことがあるんだ。こちらの人間には、あの日本人目がない。意外だったなあ。……」ある日、いっしょに元町のうどん屋でうどんを食べているとき、李騰志がふとそんなことを言い出した。(中略、台湾人に対して日本人の目に表れる差別的態度。内地には台湾人が少ないし外形ではわからないから「日本人目」も存在しない)
「そんなかんたんなことなんだな。理由を言われると納得するが、ひろい世間を見たという気がするよ。内地の日本人はまるで別の民族みたいだ。日本人があんがい親切だということも、こちらに来て、はじめてわかった」》
李は志望校に落ちた。帰郷する彼を中突堤で見送った。李が別れ際に、記念だと言って漱石の『草枕』をくれた。俊仁は彼との「心のつながりの証拠」として大切にしようと思った。
俊仁は神戸在住の外国人とも親しくなった。インド人のジョンとメリー兄妹。ジョンはインドの研究をしている俊仁に、「研究する値打ちのものがありますか?」と、祖国を皮肉る。植民地だから進歩できない、また、植民地のおかげで「暗黒世界」から「人間ギリギリの線」にいられる、と。トルコ人のアスタはロシアに住んでいた種族で、ソ連になって中国東北部に逃れ、日本に移住してきた。開戦直前、在留外国人への警戒が厳しくなり、米英人は引き揚げていく。彼らは家財を処分した。トアロードで老人が蔵書を道ばたに並べていた。俊仁は「シャーロック・ホームズ」シリーズを3冊買った。老人の悲しそうな目、そして、彼は「グッド・ラック」と言った。
《Good-byeではなく、Good luckと言ったのはなにか意味を含ませたのかもしれない。
通りすがりの学生にたいしても、その老人は惜別の情を抱いたのであろう。老人はこの国の人とは、もう再び会えないと思っているのにちがいない。――
俊仁は胸がしめつけられるようだった。》
親しい人たちも帰国していく。
《神戸の町に、すこしでも奥行きらしいものがあるとすれば、それはそこに別れがあるからではないだろうか?
幕末ぎりぎりの開港によって、神戸はようやく都市らしいものを形成しはじめたのである。京都や大阪のような、伝統のある町とはちがう。どうしても浅薄にならざるをえない。それをどうにか救っているのは、港を舞台にくりひろげられる、おびただしい別離劇であろう。それがなければ、神戸はどうしようもない、薄っぺらな港町に堕したにちがいない。》
戦争は深刻化し、俊仁は繰り上げ卒業し、同級生たちは戦場に行く。米軍本土空襲が始まる。関東の高校に入った李は「志願兵」を強制されるが忌避し、逃亡生活。ジョンは空襲の時、日本人に襲われ負傷する。
45年8月15日、俊仁は玉音放送を身ぶるいして聞いた。はっきり聞き取れ、意味もわかった。ジョンとメリーに会う。
《「べつに用事はないんだ。いろんなことを話したくてね」と、ジョンはいった。
そうだ、いろんな話がある。若者のなかには、自分でも気づかない、すばらしいものの芽がひそんでいるものだ。話しているうちに、そのいくつかをつかむことができるかもしれない。
そのうちに、彼女もやってきた。やはりいろんなことを話したそうな表情であった。
新しい時代の幕がひらいたのだ。――》
「彼女」とは、俊仁がしあわせにしたいと決めた人。
(平野)
■ 『海の本屋のはなし』あれこれ
9月2日 ワールドエンズ・ガーデン
「『海の本屋のはなし』読書感想会」
http://d.hatena.ne.jp/worldends-garden/20150812
先日紹介した「週刊朝日」朝山実さんの文章はこちらで読めます。
http://dot.asahi.com/ent/publication/reviews/2015082700019.html「読書カード」
懐かしい顧客さん、私が知らないOBさん、近辺の方、遠方からも。ありがとうございます。