盆休み、子どもたちが今年は帰らないと言うので、親の方から上京。美術館行って、野球観戦して、ちょっとだけ本屋めぐり、それと野獣NR出版会訪問。
「渋谷大古本市」東急東横店にて。
■ 岩阪恵子 『画家 小出楢重の肖像』 新潮社 1992年刊
小出は大阪生まれの洋画家(1887~1931年)。家族肖像画、裸婦像で知られる。谷崎潤一郎作品の挿絵もあるし、文章も達者。生家は島之内(船場と並ぶ商業の中心地)の薬屋。親の反対を押し切り、1907年東京美術学校に入学。楢重が画壇で認められたのは1919年の二科展に出品した「Nの家族」、親子3人、卓上に果物や本がある。
《帽子をかぶったNは、着物のうえに羽織を重ね、右肩を心もち後ろへ引いた恰好で煙草をくわえている。その白い紙巻煙草の先端から薄い煙がほぼ垂直に漂っている。Nは画家楢重。幼い一人息子泰弘をはさんで、妻の重子がすこし不機嫌ともみえる表情で俯いている。彼女のつぶやきが私の耳もとまで届いてくるような気がする。
「あんさん、ほしい思うたらなんでも買いなはるよって……二月の家計の八十五円足らずのうち、二十七円ちょっとが絵具や額縁やテーブルに要ってます。お医者には家中でようかかりますやろ、五円六十銭払いました。それに泰弘の牛乳代が馬鹿になれしません、六円四十五銭です。それと十七円がどうでも家賃にかかりますやろ……」(後略)》
住まいは日本画家が住んでいた家で、2階が畳敷きの画室。絵はそこで描かれたもの。生活資金は実家と友人たちの援助だった。
楢重はそれまで文展に3回落選、この作品は二科展出品前から入選すると自信を持っていた。
《この自信がどうしてもたらされたのかを考えると、もちろん周囲からの称賛にも助けられたであろうが、文展落選をふくむ不遇の数年間、楢重を内からささえてきたものが、とりもなおさず自らを強く恃む心であったことである。この自恃が自信となるのは当然であった。それを裏づけるのは、美校時代からの日日の真面目で熱心な絵画にたいする彼の姿勢であり、技術の修練であっただろう。「何事も修業だ修業だと私は思ふのだ」と彼は書いているではないか。(後略)》
「Nの家族」は倉敷の大原美術館蔵。
『安水稔和詩集』(思潮社現代詩文庫、1969年初版ですが、入手したのは75年4刷)も。
■ 『海の本屋のはなし』あれこれ
共同通信社配信で永江朗さん書評があちこちで。サポーターたちから「山陽新聞」と「四国新聞」をいただきました。
職場の大先輩がうみねこ堂書林イベント記事「神戸新聞」コピーをくださいました。皆さんありがとう。
8月22日、長田区鷹取のインターネットラジオ・FMわいわい「ホンネでわいわい 一行詩のひろば」収録。
海文堂時代お世話になった「きかんし協会」の番組にお招きいただきました。拙著の話や本屋、読書について話しました。
メインキャスター・林英夫さん,FMわいわいパーソナリティ・高見かおりさん、きかんし協会・畦布哲志さんに導かれて、わりとリラックスして話したつもりです。スタッフの皆さん、ありがとうございます。
終わってみるとズボンのお尻は汗びっしょり、やっぱり緊張していました。9月毎週土曜日放送予定です。改めてお知らせします。
(平野)