2015年8月11日火曜日

道半ば


  陳舜臣 『道半ば』 集英社20039月刊

「陳舜臣中国ライブラリー」全30巻(集英社、19992001年)の月報と、「青春と読書」(同社、2003年)に連載した「道半ば」。生い立ちから江戸川乱歩賞受賞までを語る。と、一言ではまとめてはいけない。戦時下から戦後、学問を志す台湾人青年の半生。
 台湾人は日本国籍をもっていた。陳の父親は貿易商、特高の監視下にあった。陳の世代、台湾人に兵役義務はなく志願制だったが、大学1級下の同胞は志願を強制され入営した。2歳下の弟(1945年満20歳)から台湾人にも徴兵制が適用された。

《台湾はいうまでもなく日本領であったが、そこに住む人たちは、完全な日本人とは認められなかった。(中略、台湾に設立された帝大入学試験でも差別があった)
 なかには差別されて、却って幸いだというのもあった。それは国民の義務とされた「兵役」がないことである。純血主義の日本は、台湾人の兵士などは安心して使えなかったのだ。
 軍夫という制度はあった。読んで字の通り、軍隊の人夫である。兵士ではなく、軍に使役される「苦力(クーリー)」にほかならない。
 志願制ということになっているが、各郡役所に強制的に人数を割りあてるのだ。事変が始まると、軍夫は中国戦線各地に送られた。(後略)》

 陳は大阪外国語学校を約2年半で繰り上げ卒業させられたが、「西南アジア語研究所」に残ることができた。仕事はインド語の辞書編纂。敗戦まで4年あまり勤めたが、戦争終結によって「身分に大きな変化」がおこる。

《日清戦争によって、我々台湾人は自分の意思にかかわらず、国籍を清国から日本に変更させられた。そして五十年後、太平洋戦争の終結によって、再び国籍を中国にさし戻されることになった。これまた本人の意思に関係なくそうなったのである。
 これが私立の学校なら、あまり問題ではなかったが、大阪外語は国立なので、複雑な問題がおこった。
 日本人でない限り「任官」できないのである。(後略)》

 1946年陳は台湾に帰郷する。

《帰郷することにきめたというが、私は神戸生まれなので、故郷がどこかときかれると、いささか考えこんでしまう。私に限らず都会生まれの子は、同じような問題をもっているだろう。(中略)
 たいていの人は、もう神戸を故郷と思い定めている。じつは私たちもほぼ同じ状態であったが、ただもう一つの故郷が、たいへん遠いということがちがっていた。これは距離的に遠いというだかでなく、「異郷」といってよいほど質的な距(へだた)りが大きい。かんたんに「おち着いたらまた」と言えない。国籍までちがってしまったのである。(後略)》

 陳は新設の中学で英語教師になるが、台湾の政治は国民政府のしめつけや大陸の内戦で混乱。49年第一期の卒業生を送りだして神戸に戻る。
 貿易の仕事を手伝いながらペルシャ語の勉強をしていたが、敗戦時に学問の道はあきらめた。「せめてペン・マンとしての道を歩みたい」という望みはあった。小さい頃から読書を楽しみ探偵小説もよく読んだ。コナン・ドイルは原書で読んだ。
 陳は長年親しんだペルシャの詩集「ルバイヤート」の日本語訳を試みるが、ちょうど岩波文庫で出た小川亮作訳の素晴らしさに驚く。

《私は自分の青春とともにあったルバイヤートが、すぐれた訳者を得たことをよろこび、そして祝福した。
 さらばルバイヤート、のつぎのことばを私は考えた。
 ――今日(こんにち)は、ミステリー。(後略)》

(平野)
暑くてしばらく休みました。パソコンもちょうど故障していました。

 『海の本屋のはなし』あれこれ

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「岩手日報」89日書評で永江朗さんが取り上げてくださいました。
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