■ 岩阪恵子 『わたしの木下杢太郎』 講談社 2015年9月刊 1800円+税
木下杢太郎、本名太田正雄(1885~1945)、静岡県賀茂郡湯川村(現伊東市)の裕福な商家に生まれ、一高・東京帝国大学医科に学んだ医学者、文学者。絵を描き、キリシタン史研究もある。語学堪能。
本書「はじめに」より。北原白秋、齋藤茂吉、石川啄木ら杢太郎と交遊のあった同時代の人たちは今も読まれているのに……、
《ではなぜ杢太郎は彼らほど人気がないのだろうか。思うに、彼の活発な文学活動はほぼ二十歳から三十歳までのもので、その後の彼の努力は専ら医学を中心としたものに向けられてしまったこと、生涯にわたって随筆や評論は書かれたが、文壇からは離れた存在であったこと、彼の書くものにはその奥に白秋、茂吉、啄木に劣らぬ抒情性があるが、それが知的に抑制されているため読者がたやすく入りこめずとりつきにくく感じること、医学以外の彼の興味が広汎にわたっており、それらに附き合うのがなかなか困難なことが挙げられるだろう。また一般的に言って破滅型や無頼派の文学者は人気がありがちだが、杢太郎のように大学の教授として破綻もなく一生を終えた人物は面白味に欠けると受けとられやすいのだろう。(後略)》
学生時代に与謝野寛の新詩社同人になり、同人誌・一般雑誌に詩、小説、評論を寄稿。森鷗外、上田敏、白秋らと親交する。1915(大正4)年、小説集『唐草表紙』(正確堂)を刊行、鷗外と夏目漱石が序文を書いた。それほどの人がなぜ文学ひとすじに進まなかったのか?
医学者としても皮膚学の分野で業績を残している。ハンセン病研究にも情熱を注いでいたが、戦争激化で中断。広く「文明」についても考え、日本が西洋に追いつくために漢字制限や仮名遣い改訂など実用のみを追求する動きに異を唱えた。しかし、古典研究は東西問わず人類共通の財産であるという立場。
昼は研究者、夜は芸術家という生活。文章を求められれば書いたし、本の装幀も引き受けている。
岩阪は、杢太郎の高い学識と教養、豊かな芸術的感性、それに家庭的事情など、その生涯をたどっていく。杢太郎が真面目に60年を生きたことは間違いない。とても濃密な時間である。
鶴岡善久「もうひとりの木下杢太郎」(『図書』4月号)が杢太郎の東大病院在職時代の当直日誌『とのゐふくろ』を紹介している。本来実務のための報告・伝言用であろうが、杢太郎が書いているのは、
《……そのほとんどが一口でいえば「遊び心」から出たものである。食事、買い物、行事、はては芸者の話題まであらゆる用件が記されている。》同僚や患者、宴会の様子などのスケッチ(戯画)もある。岩阪の描く杢太郎は大秀才で堅物のイメージだが、鶴岡によればユーモアもある人だった。
(平野)
私も杢太郎のことは世間の人にあまり知られていないと思う。私は本屋新米時代に、岩波書店から全集や豪華な『百花譜』が出版されていたので名前だけは知っていた。兵庫県文学史本『環状彷徨』(宮崎修二朗、コーべブックス、1977年)で、神戸を訪れた医学生杢太郎が神戸の町について良い印象を持っていなかったことも。