■ 白石征 『望郷のソネット 寺山修司の原風景』 深夜叢書社
2015年8月刊 2400円+税
白石は1939年愛媛県今治市生まれ、元編集者、劇作家、演出家。新書館で18年間寺山修司の著作を担当した。50歳で演劇界に転身。寺山との出会いは学生時代に通ったシナリオ教室だった。
83年寺山が亡くなった後も、出版を待つ作品が数多く残されていた。白石は追悼本『さよなら寺山修司』(新書館 1983年)の編集後記にこう書いた。
《寺山さんにとって愛着の深かったであろう、この残された仕事の山が語りかけてくるのは、何よりも寺山さんの果敢な人生と、寺山さんがついに選ぼうとしなかった〈平穏な人生〉のことである。
会えば必ず、静養や息抜きをすすめるぼくたちに、寺山さんはいつも微笑を向け、今度からは映画の仕事は止めるよと言って、安心させてくれたものだった。でも、今はこの休息なしの疾走の連続こそが、寺山さんの人生だったのだなと思う。》
寺山は少年時代からずっと「不在」「わかれ」を書いてきた。父親は戦死、母親は遠い九州に出稼ぎに出て、母子家庭でさえもなくなった。
「世界で一ばん遠いところ」
《「わかれ」を綴りながら、幾重にも重なり微妙にズレていく過去の記述、その間にあって見え隠れするものこそ、幾度となく繰り返し、そのつど「物語」とし過去を語らなければならなかった寺山修司という名の「私」の悲哀であり、魂のありようだったのだ。それほど心の傷は深く、癒されつつも容易に記憶から解放されることはなかったのである。
しかし、その反芻の軌跡だけが、たった一つの「故郷」へとむかう彼の魂を浮かび上がらせる。
寺山修司の最後の詩が「懐かしのわが家」であったことは、示唆的であった。愛するものの「不在」=「少年時代」によって、彼の人生そのものが実は充たされていたことに思い至らされるからである。
鉄路にたたずみ、汽笛の口笛をひびかせながら「世界で一ばん遠いところ」へ思いを馳せつづけてきた寺山修司の孤独な魂は、この世では決して実現しなかった「懐かしのわが家」へと辿りついたというべきかもしれない。》
「懐かしのわが家」(82年9月、朝日新聞掲載)、第2連。
《……子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ》
(平野)