2016年4月23日土曜日

編集ばか


 坪内祐三・名田屋昭二・内藤誠『編集ばか』 彩流社 201511月刊 1600円+税
 

 文芸評論家・坪内、元『週刊現代』『ペントハウス』編集長・名田屋、映画監督・内藤。名田屋と内藤は早稲田大学政経学部同期1959年卒)で明治文化研究・木村毅の指導を受けた。坪内は2011年、内藤監督「明日泣く」(阿佐田哲也原作)に出演、さらに2015年、内藤が坪内のエッセイ「酒中日記」(酒場巡りと作家・文化人たちとの交流)をドキュメンタリー映画にした。本書は内藤の企画。名田屋の編集活動=「途方もなく型破りな話」を聞く。
 昭和30年代初期、映画の興行成績が最高潮、民放テレビ局が次々に開局、出版界は皇太子・美智子妃成婚で週刊誌創刊ラッシュ、という時代。

坪内 当時、出版社が週刊誌を出しても成功しないと思われていました。ところが『週刊新潮』が成功したのです。それで、これはいけると他の出版社系週刊誌もそれぞれの道を開拓していく。

名田屋 時代背景でいえば、テレビ時代の幕開けと学年誌の、曲がり角ということがありました。小学館が『小学一年生』、それに対して『たのしい一年生』と学年誌がぶつかり合っていた。その学年誌をやめて、少年向きにマンガ誌『少年マガジン』、そして大人のライフスタイルの模索として『週刊現代』を創刊したわけです。小学館ではマンガ誌『少年サンデー』を刊行します。

 名田屋は創刊されたばかりの『週刊現代』に配属される。編集長は文芸誌『群像』の大久保房男。

名田屋 ……当時の講談社のなかではエースの起用だったと思います。(中略)連載小説陣をみると、川口松太郎、松本清張、石坂洋次郎と当時の超流行作家を並べています。けれども、あまり部数は伸びず、すぐに方針を変えて、流行作家を切って『群像』時代に関係を築いた純文学畑の作家を起用しました。非常に大胆な方針転換です。(中略)吉行(淳之介)さんの『すれすれ』に、安岡章太郎さんは『ああ女難』を書きました。他にも梅崎春生、奥野信太郎、外村繁、北原武夫など他誌では見られない顔ぶれでした。(後略)

 作家と編集者、作家同士のいろいろな関係(純文学畑とかライバルとか)、恩師木村と松本清張のつながりなどをおりまぜて当時を語る。

名田屋 (配属当時)『週刊朝日』では獅子文六の『大番』、『サンデー毎日』では源氏鶏太の『新・三等重役』があってたいへんな評判で、いまよりも作家の力が週刊誌の部数増に貢献する度合いが強かったんです。したがって、作家の担当は当時はいまより重要で、また他に漫画家の加藤芳郎氏や荻原賢次氏などの原稿とりも忙しかった。とにかく取材して記事を書くために走りまわりました。やはり若いからできたのかな。

『週刊現代』は読者をサラリーマンにしぼり、67(昭和42)年百万部突破。ライバル小学館が『週刊ポスト』を創刊する。
 名田屋が副編集長時代に梶山季之の連載小説『かんぷらちんき』が警察に摘発され、講談社が連載を中止する。これに推理作家協会が猛抗議し、執筆を拒否。69年、名田屋が編集長になって、五木寛之『青春の門』がスタート、大ヒットする。

「品行は問わない、品性は問う」をモットーに、トラブル、スクープ、スキャンダル、新しい書き手発掘……。『週刊現代』だけではなく週刊誌が元気だった時代。
 名田屋は80(昭和55)年『ペントハウス』編集長に就任、「ヌードはニュース」路線でマスコミを騒がせた女性を登場させた。

(平野)