『ほんまに』第18号、ゴローちゃん奮闘中。8月に出せるか!?
神戸空襲を取り上げる。当時中学生だった人たちの文章を紹介する予定。学校は違うが、同学年4人。小松左京と野坂昭如も登場する。文学研究者の話では、野坂は『火垂るの墓』で小松らしき中学生を登場させている。もちろん二人の出会いは戦後作家になってから。
小松の文庫本『ウインク 他十一偏』(角川文庫、1972年10月刊)の解説を野坂が書いている。解説文は野坂の「僻み」から始まる。
《小松左京は、昭和六年の早生まれだから、ぼくと学年が同じである。小松は神戸一中出身で、ぼくは神戸市立一中を中退している、同じ一中でも、この両者、いわば月とスッポンであって、小松の方の一中は、カーキ色の制服、学用品を白い絹の風呂敷に包んで小脇にかいこみ、全市女学生の憧れの的だった、ひきかえわが方は、〽神戸中学坂の上、大の男のランドセルと唄われた如く、幼稚園児のような姿なのだ。ぼくが入学する前まで、神戸中学、通称ベー中といって、それなりの個性があったらしいのに、なまじ一中などと改名したため、いかにもインチキ臭い印象であり、おかげで、ぼくは今でも、小松左京に、かなりの劣等感を抱いている。》
野坂は小松を、「秀才」より「巨才がふさわしい」、「根底にうかがいしれぬ、異様な虚無の翳を、ひそめている」と書く。
《……未来学とか、あるいは万国博覧会に関係して、なにやらうわっ面は、馬鹿面ぞろいの、繁栄たいこもちに見られかねないが、小説家小松左京を支えている底には、やはりわれわれの世代が、否応なく眼にせざるを得なかった、戦争体験がある。ぼくなど、才足らざるを補うために、大安売の態だけれど、彼はあくまで屈折した形でしか、戦争空襲に関わることを書かない、それだけに、根は深く暗いのだ。》
本短篇集には戦争空襲作品なし。カバーは黒田征太郎。
(平野)
余談。私は神戸市立神戸中学校卒業。戦後の新制中学ですよ。現在は統合で神戸生田中学校。神戸中学は国鉄元町駅北側、狭い校庭で、隣の小学校の方が大きかった。自校を「べーちゅう」と呼んでいた。誰が言い出したのか、なぜ「こうちゅう」ではないのか、わからなかった。旧制神戸中学のことを知っている親御さんがいたのか、野坂の本を読んでいた人がいたのか。私が知ったのは数年前。それでも旧制「神戸中学」の呼称がなぜ「べーちゅう」となったのかはわからない。同級生のS君が「べー中校歌」を作った。
〽むかしむかしそのむかし、ちんちん電車のすぐそばに、小さくそびえるわが母校、われらわれら、ベー中!
だったと思う。