■ 土方正志 『新編 日本のミイラ仏をたずねて』
発行:天夢人 発売:山と渓谷社 1800円+税
初版は1996年晶文社より。著者は仙台の出版社・荒蝦夷(あらえみし)社主。本書はライター時代の著作。著者の活動は災害現場取材が多く、出版時期も阪神淡路大震災取材と重なる。今回復刊にあたり寺院を再訪し、最新の状況を「25年目のメモ」にまとめる。
取材した即身仏は現存が確認できる18体。東北の出羽三山を中心にほとんどが東日本に残る。寺院の秘仏もあれば個人蔵もある。私はミイラや怪奇に興味はない、と言うより怖い。本屋時代世話になった著者の文章を読みたい。
空海の即身仏信仰がある。修行を積み、生身のまま成仏=悟りを得るというのが「即身成仏」。それならミイラになる必要はないように思う。一方、肉体を長期保存して弥勒菩薩がやってくる56億年ン万年後を待つという信仰がある。また、海に漕ぎ出す補陀洛渡海というのもある。
僧や行人(ぎょうにん)と呼ばれる信仰者たちは、断食など難行苦行を繰り返し、不犯の誓を立て、法力を得て、貧民救済や社会事業(道路整備、井戸掘り)など功徳を積む。死期を悟ると穀物を断ち、山菜・木の実・木の皮など木食、さらに漆を飲む。餓死寸前で土中に入り読経しながら死に至る。ミイラ化するのに3年余り。そうまでして彼らは何を伝えたかったのか。民衆の救済のための自死なのか。
著者の体験を見よう。阪神淡路の取材で、遺体とその周りに立つ家族、血痕、生き埋め者、救急車を待つ意識不明者たちを目の当たりにして、頭の芯がしびれ、疲労が身体の奥にたまる。その時、出羽の山並と即身仏のすがたが目に浮かぶ。取材が一段落して、時間の都合で行ける即身仏に会いに行った。ただその前でごろごろしているだけで、「すっと気持ちが晴れた」。
〈この自分の気持ちの動きに、説明はつかない。だが、生と死が交錯する現場で、私はいつも即身仏さんたちを思い浮かべるようになってしまった。/きっと、即身仏さんたちは、死そのものをひとつの具体的なかたちとして生者である私たちに見せてくれているのだ。人は死ぬとこうなるんだよ、と。だから人の死にゆく場所に身を置いたとき、いつも彼らのすがたが目に浮かぶ。〉
東日本大震災では著者自らが被災者になった。即身仏に知人の無事を祈った。
(平野)《ほんまにWEB》「しろやぎさんくろやぎさん」「奥のおじさん」更新。