■ 井伏鱒二 『太宰治』 中公文庫 900円+税
単行本は1989年筑摩書房より。
今年は井伏鱒二生誕120年、太宰治没後70年にあたる。
〈私と太宰君の交際は、割合に古い。はじめ彼は、弘前在住のころ私に手紙をくれた。その手紙の内容は忘れたが、二度目の手紙には五円の為替を封入して、これを受取ってくれと云ってあった。私の貧乏小説を見て、私の貧乏を察し、お小遣のつもりで送ったものと思われた。東京に出て来ると、また手紙をくれた。面会してくれという意味のものであった。(後略)〉
井伏が返事をせずにいると、太宰は3度目か4度目の手紙で、会ってくれなければ自殺すると威かしてきた。出版社で会い、太宰の作品を読み、助言した。
井伏には楽しい思い出がある。太宰と将棋を指し、酒を飲み、旅をした。辛い話もある。クスリ中毒の太宰を入院させ、同棲していた女性を家に引き取ったこともある。津島家の番頭役(使用人ではない)の人たちと共にこまごま面倒を見た。見合いの段取りをつけ仲人もした。戦後、太宰は古くからの友を避けるようになった。ある編集者が井伏に、太宰とひと月ばかり静かな山の宿に行ってくれと頼んできた。編集者には悪い予感があったのだろう。井伏は了解したが、それが太宰に伝わる前に彼は入水した。もし伝わっていたら、太宰は承知しただろうか。最後に会ったのはその年の初め、太宰は暗い顔で衰弱していた。井伏には悔いが残る。
二人が親密だった頃、井伏が家で酒を飲んでいると、必ず太宰がやって来た。太宰は嬉しそうな笑顔で髪を掻き揚げ、文学仲間は井伏もまた嬉しそうな顔をしたことを覚えている。太宰は、森鴎外が「緩頬(かんきょう)」という単語を使っていることを発見。井伏に、頬が緩む、微笑に近いが微笑まではいかないなどと説明。小説に使おうと思うと話した。(小沼丹「あとがき」より)
楽しい話をもうひとつ。太宰は「富嶽百景」で井伏が山で放屁したと書いた。井伏は身に覚えがなく訂正を求めた。太宰は、「いや放屁なさいました」「あのとき、二つなさいました」と敬語で反論。
〈……故意に敬語をつかうことによって真実味を持たそうとした。ここに彼の描写力の一端が窺われ、人を退屈させないように気をつかう彼の社交性も出ているが、私は当事者として事実を知っているのだからこのトリックには掛からない。「しかし、もう書いたものなら仕様がない」と私が諦めると、「いや、あのとき三つ放屁なさいました。山小屋の爺さんが、くすッとわらいました」と、また描写力の一端を見せた。一事が万事ということがある。〉
井伏が言うには、山小屋の爺さんは高齢で耳が全然聞こえない、笑うはずがない。
太宰は生前、井伏の選集を出すことを決め、全解説を執筆する予定だった。太宰の葬儀で井伏は声を上げて泣いた。(井伏節代インタビュー「太宰さんのこと」より)
(平野)太宰が井伏を悪人と書いたとか。それに関する事も本書にあり。でもね、それも太宰のトリックでは?