2021年11月11日木曜日

淡墨

 11.10 キムラさんから『象牙海岸』出版記念会新資料届く。また2名出席者判明。大阪の詩同人誌「PÈPÈE(ぺえぺえ)」(フランス語の幼児語で人形の意、表紙は人形劇の絵)の創刊号、昭和85月発行。山本信雄という詩人の文章。

〈舊臘神戸で竹中さんの「象牙海岸」の紀念會があつた時、ちょうど御歸阪中だつた船越さんを御誘ひして出かけた。その時に、山下三郎堀辰雄の兩氏が見えてゐて、日頃自分の敬愛してゐる作家に接し得られた喜びで一杯だつた。(後略)〉

「船越さん」は、船越章。「コギト」(保田與重郎主宰)同人、フランス文学者のようだ。

 当時の詩人たちは広く交流していた。

 キムラさんからは毎回貴重な資料をいただく。感謝感謝。

 来春、その貴重な資料発掘を基に新刊が出る予定。季村敏夫『一九二〇年代モダニズム詩集――稲垣足穂と竹中郁周辺』(思潮社)。「周辺」が眼目。楽しみ楽しみ。

 

 若杉慧 「淡墨」 「文學界」昭和18年(1943年)9月号に収録。





本作は翌年2月の第18回芥川賞最終候補4作に入る。受賞作は東野邉薫「和紙」。選考委員の評価はそれに次ぐものだったが、残念。

「神戸事件」を題材にする。慶応4111日(西暦では186825日)、備前藩の行列が西国街道を西宮に向かっていた。神戸村居留地北側の三宮神社前で、数名の外国人兵士が行列を横切った。武士社会の常識では無礼討ちだろう。両者小競り合いから発砲。港の英仏の軍艦から兵士が上陸し、戦闘状態になる。備前藩は摩耶山方面に引き揚げた。双方に負傷者が出たが、死者なし。外国軍は街道を封鎖し、港の日本船を抑留。事件を国際問題として、謝罪と賠償を求めてきた。

ちょうど長州から京に向かう伊藤俊輔が神戸に到着。面識のある英パークス公使に会うが、交渉を拒絶される。

前年10月大政奉還、事件の数日前に鳥羽伏見の戦いが終わったばかり。まだまだ内戦が続く。新政府の体制は整っていない。直ちに伊藤は大坂に行き、外交事務総督・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)から外国事務掛を拝命。新政府外交官としての初仕事が「神戸事件」となる。

 小説は、英国書記官の手記(若杉の仮説)を中心に、備前藩の砲術責任者・瀧善三郎正信切腹を描く。外国側は万国公法を盾に責任者処分を要求。伊藤ら日本側は穏便な処置を繰返し求めるが、聞き入れられない。備前藩(藩主は徳川慶喜の弟)は、朝廷のため、藩のため、瀧の死罪を受け入れる。瀧もすべて飲み込む。

 題名は瀧が家族に遺書を書いた墨のこと。

〈……先刻遺書を認めた残りの墨へ、とくとくとくと淡めすぎるほどに棗の水差を傾けると、發墨が清冽な匂ひをこめて散つた。彼はおもむろに息をのんだ。(後略)〉

 辞世。「きのふ見し夢は今更引かへて 神戸のうらに名をやあげなむ 正信」。

 日本暦29日、兵庫津永福寺にて、外国6ヵ国代表と日本側検証人の前で瀧は切腹を遂げた。

(平野)