2024年10月17日木曜日

大江戸綺譚

10.13 「朝日歌壇」より。

〈中学の全校生でイナゴ取り図書費作りき昭和のわれら(山形市)佐藤清光〉

 家人と京都大谷本廟墓参り。他に用事もなく、午後早めに帰宅。

10.14 家人と六甲アイランド、島内別行動。ヂヂは神戸ゆかりの美術館「宮城県美術館コレクション 響きあう絵画」。同館改修工事長期休館中に際して、所蔵品巡回。宮城県や東北地方ゆかりの作品、海外作家の作品、洲之内徹コレクションなど74作品。

10.15 早朝福岡さんからメール。13日古書店主・山田恒夫さん逝去。海文堂書店での古書イベント開催と「古書波止場」開設に尽力くださった。先日はSNSで名古屋ちくさ正文館の古谷一晴さん逝去のニュースあり。ご冥福を祈る。

10.16 新聞記事で神戸元町生まれの人形作家・吉田太郎さん2月逝去を知る。からくり仕掛けの「神戸人形」を復活させた人。詳細は「神戸人形のウズモリ屋」公式ページを。

https://www.kobotaro.com/kobedoll/index.php

 

 『大江戸綺譚 時代小説傑作選』 細谷正充編 ちくま文庫 

800円+税



 江戸を舞台にした時代小説怪談集。ほんわか因縁ばなしや真相究明もあるが、恐い怖い。人間の心にある恐怖や恨み、悲しみが怪談を作り出す。

木内昇「お柄杓」 木下昌輝「肉ノ人」 杉本苑子「鶴屋南北の死」 都筑道夫「暗闇坂心中」 中島要「かくれ鬼」 皆川博子「小平次」 宮部みゆき「安達家の鬼」

「安達家の鬼」より。

 紙問屋・笹屋の嫁「わたし」は義母の介護。「わたし」は家族の縁薄く、笹屋と同業の店で女中奉公(子守りと病人の世話)していて、縁談。義母には不思議な力がある。若き日の苦難時から鬼に守られていた。「わたし」は鬼が見えない。義母は、おまえの心が清いあかし、と言うのだが、

〈「人は当たり前に生きていれば、少しは人に仇をなしたり、傷つけたり、嫌な思い出をこしらえたりするものさ。だからふつうは、多少なりともを見たり感じたりするものなんだ。だけどおまえにはそれがない。ということは、おまえはあまりにもひとりきりで閉ざされた暮らしをしてきて、まだとして生きていなかったということなのだよね」/これからだよ――と、呟くようにおっしゃいました。(中略)/「良いことと悪いことは、いつも背中合わせだからね。幸せと不幸は、表と裏だからね」/辛いことばかりでは、逆にも見えないのかもしれない――だからやっぱり、おまえはこれから(、、、、)なのだよ。

 義母が亡くなり、「わたし」はの姿を見る。微笑んでいる。義母のまなざしに似ている。声をかけるとは消えた。義母の声が聞こえる。「――人として生きてみて、初めてが見えるようになるのだよ」。

 

(平野)

2024年10月14日月曜日

江戸川乱歩座談

10.6 「朝日俳壇」より。

〈捨て難き書をまた戻す夜長かな (多摩市)田中久幸〉

〈本の虫虫が大好き虫図鑑 (さいたま市)春日重信〉

〈宇能没すたわわに熟す葡萄なる (秦野市)浜田恵〉

10.8 森鷗外長男・於菟の生涯を描いた本に心動かされ、余計なお世話。出版社の昔馴染みの営業マンに関連資料コピーを送りつける。著者さんの役に立つかどうかわからないけれど、ヂヂのおせっかいは迷惑かもしれない。

10.9 孫電話。姉はいきなり「しりとりしよう!」。退屈していたか、それともヂヂババと遊んでやろうの心遣いか。妹は今日食べたものの報告と、明日食べる予定を教えてくれる。

10.11 「朝日新聞 鷲田清一 折々のことば 3231」。

 夏葉社社主・島田潤一郎『長い読書』(みすず書房)より。

〈自信のない声や、いい淀む声、朴訥な声や、なにかに身を捧げるような静かな声のほうに真実味を感じる。〉

10.12 日本原水爆被害者協議会(日本被団協)ノーベル平和賞受賞。

〈「ヒバクシャ」として知られる広島と長崎の原子爆弾の生存者たちによる草の根運動は、核兵器のない世界の実現に尽力し、核兵器が二度とつかわれてはならないことを証言を通じて示してきたことに対して平和賞を受ける。〉ノーベル委員会授賞理由から(「朝日新聞」10.12)。

 

 『江戸川乱歩座談』 中公文庫 1300円+税



 2024年は江戸川乱歩生誕130年。現在も大人気作家である。

……探偵小説の未来について多様な創作営為を持つ人々と広く意見を分かち合い、対話をもってジャンルの行く末を志向していく場を用意する、優秀なホストとしての乱歩像である。〉(解説・小松史生子)

本書は探偵小説仲間との対談・鼎談だけではなく、他ジャンルの作家や文化人らとも対談を収録。乱歩は寡黙のイメージだが、ホスト役を勤めて話を引き出していく。

 仲間と探偵小説そのときどきの現状、将来を語り合う。文豪たちの探偵小説趣味、探偵小説好きが語る批評、それに同性愛、心霊現象の話も。

 小林秀雄との対談で「独裁国に探偵小説なし」という話に。

……戦争のときにはドイツやイタリアでは探偵小説を禁じたでしょう。それに尻馬に乗って日本も探偵小説が弾圧されちゃったですよ。僕なんか七年ぐらい全然収入なかったですよ。(中略)ところがアメリカやイギリスは塹壕の中で探偵小説のポケット版を読みながら戦っていたじゃないか。これはちゃんと裁判を護国だ。独裁国ではこういうものは流行りこないということを戦争中にさかんに向うの人も言いました。(後略)〉

(平野)

2024年10月6日日曜日

本の身の上ばなし

10.4 「朝日新聞 鷲田清一 折々のことば 3224」より。

〈いま読まれていないもの、関心をひかないものは何か。それを考えれば、逆にこの時代がどんな時代なのかが見えてくる  荒川洋治〉

 鷲田解説。売れないものには冷たい。本もそう。「読まれていないもの」こそ時代に欠けているもの。〈(荒川は言う)実際、採算が合わずとも「後世のために」出しておきたいと考える人が昭和の頃までは大勢いたと。〉

10.5 大阪梅田に出る家人に「BIG ISSUE」を買ってきてもらう。8月から5冊。

 


 出久根達郎 『本の身の上ばなし』 ちくま文庫 

880円+税



 著者得意の書物と人間のドラマ。201910月から2010月まで「日経新聞」に週1回連載した「書物(ほん)の身の上」を改題。イラストは南伸坊、連載時の挿絵のまま掲載。

〈有為転変は人の世の習いだが、書物にも数奇な運命がある。本の身の上は、本にかかわる人の物語でもある。(後略)〉

 俳優・高倉健のエッセイからはじまる。飛行機内で見知らぬ人から話しかけられる。煩わしく思うが、同郷人とわかり、「迷惑な、という思いが薄れていく」。

 出久根は高倉の故郷福岡県中間市底井野(そこいの、旧筑前国遠賀郡底井野)の主婦の日記を紹介。小田宅子(いえこ)は両替商の娘、国学と和歌を学ぶ。天保12(1841)年53歳の時、同門の女性たち(従者も)と伊勢参り。名古屋、善光寺、日光を経て江戸。帰りは甲府、上諏訪、京都をまわり大坂から船に乗る。女性の長旅が珍しい時代、5ヵ月800里の大旅行だった。10年後「東路(あずまじ)日記」にまとめ、子孫に遺す。1950年代になって学者が発見、世に知らされた。名所を歌に詠み、関所破りの冒険や怖い男どもにつきまとわれる事件も記録。田辺聖子が小説(『姥ざかり花の旅笠』)にしているそうだ。

 出久根文章最後の一行。

〈うっかり言い忘れる所だった。高倉健は宅子の直系の子孫である。〉

 歴史上の人物、著名な作家・学者からその家族や無名の庶民まで、古書や古文書から見つけたあんな話、こんな話56話。あとがきには連載中に読者から届いた反響(誤り指摘、関係者からの手紙など)も。宅子の歌と高倉健の映画で閉じる。

(平野)

2024年10月3日木曜日

鷗外の遺品

9.24 「朝日新聞」夕刊。8.31仙台市の塩川書店五橋店閉店。2011.3.11東日本大震災の後、本・雑誌の配送が止まった。お客さんが山形で買った「少年ジャンプ」を置いていってくれた。店主が、ジャンプ読めます、と貼り紙をして子どもたちに読ませてあげた。新聞に報道されると、全国からマンガ雑誌が送られてきた。

9.26 ギャラリー島田DM作業。前日終了した展示を見に来たというのんびり古書店主あり。近所の画廊主がいらして、スタッフさんと何やら交渉。近々イベントがあるらしく、お誘い。全部英語ゆえ、ヂヂはところどころしかわからない。サルバドール・ダリがお師匠さんらしい。

9.28 午前中臨時仕事、午後みずのわ一徳。貴重な資料コピーいただく。提供者は詩人さん。

9.29 午前図書館、読書中の「森於菟」関連で『西村旅館年譜』に記録があったので確認。

「朝日歌壇」より。

〈親王と親玉の違いヽ(てん)一つ秋の夜に読む「和泉式部日記」 (大和郡山市)四方護〉

10.1 新しい政治リーダーが決まったが、早くも言行不一致の様相。

 午前中臨時仕事。まだまだ暑い。

NR出版会新刊重版情報」593号着。国立国会図書館のデジタル化資料サービスの問題点。絶版本や古い資料提供は利用者にとってたいへん便利でありがたい。でもね、入手可能、流通している本まで一方的に公開されている資料がある。出版社が異議を唱える。

 

 多胡吉郎 『鷗外の遺品 森於菟と台湾 遥かなる旅路』 

現代書館 2700円+税



 森鷗外の長男於菟(おと、18901967年)は解剖学者。随筆家としても知られる。鷗外の最初の妻の子。父、継母、妹、弟とは同じ敷地内ながら別棟で祖母と暮らした。於菟は悲しい生い立ちに耐え、反抗もせず、グレもせず、立派な学者になった。そして、父の遺品を守った。

〈鷗外の遺品を語ることは、於菟を語ることでもある。/この人の努力があればこそ、戦争を頂点とする昭和史の波乱激動を超えて、鷗外の遺品は守られ、今に伝わっている。〉

 於菟は父の遺品を受け継ぎ、1936(昭和11)年赴任先の台湾に移した。台湾に骨を埋めるつもりだった。台湾はかつて鷗外が医療に従事した土地。於菟は遺品をそばに置き、常に父と向き合うことができた。

 台湾に来てすぐ継母死去。葬儀や後の法要にも戻る。継母との軋轢が消え、台湾での研究も生活も充実した。台北帝大同僚たちの協力があり、鷗外記念展覧会や文芸講演会を開催。鷗外の思い出を執筆した。

 ところが、戦争の時代。空襲を恐れ、遺品を郊外に疎開させる。日本敗戦により、台湾は中華民国の施政下になる。47(昭和22)年4月於菟一家は日本に引き揚げるが、遺品はわずかしか持ち運べない。残りは大学の同僚たちが保管してくれる。国交が回復して、53(昭和28)年92000点余りが於菟の元に戻る。最後の遺品、宮芳平の絵2点と中村不折筆の詩の額1点が返還されたのは1968(昭和43)年12月。於菟の死から1年後だった。

鷗外遺品は於菟の孤独の象徴だったが、台湾の友との友情・信頼の証となった。森鷗外記念館に保存、展示されている。

 宮芳平と鷗外、鷗外作品「半生」のこと、於菟の医学研究や随筆、鷗外の詩と遺品返還に奔走した杜聰明漢詩の共鳴などなどエピソードがたくさん。

(平野)