2024年10月3日木曜日

鷗外の遺品

9.24 「朝日新聞」夕刊。8.31仙台市の塩川書店五橋店閉店。2011.3.11東日本大震災の後、本・雑誌の配送が止まった。お客さんが山形で買った「少年ジャンプ」を置いていってくれた。店主が、ジャンプ読めます、と貼り紙をして子どもたちに読ませてあげた。新聞に報道されると、全国からマンガ雑誌が送られてきた。

9.26 ギャラリー島田DM作業。前日終了した展示を見に来たというのんびり古書店主あり。近所の画廊主がいらして、スタッフさんと何やら交渉。近々イベントがあるらしく、お誘い。全部英語ゆえ、ヂヂはところどころしかわからない。サルバドール・ダリがお師匠さんらしい。

9.28 午前中臨時仕事、午後みずのわ一徳。貴重な資料コピーいただく。提供者は詩人さん。

9.29 午前図書館、読書中の「森於菟」関連で『西村旅館年譜』に記録があったので確認。

「朝日歌壇」より。

〈親王と親玉の違いヽ(てん)一つ秋の夜に読む「和泉式部日記」 (大和郡山市)四方護〉

10.1 新しい政治リーダーが決まったが、早くも言行不一致の様相。

 午前中臨時仕事。まだまだ暑い。

NR出版会新刊重版情報」593号着。国立国会図書館のデジタル化資料サービスの問題点。絶版本や古い資料提供は利用者にとってたいへん便利でありがたい。でもね、入手可能、流通している本まで一方的に公開されている資料がある。出版社が異議を唱える。

 

 多胡吉郎 『鷗外の遺品 森於菟と台湾 遥かなる旅路』 

現代書館 2700円+税



 森鷗外の長男於菟(おと、18901967年)は解剖学者。随筆家としても知られる。鷗外の最初の妻の子。父、継母、妹、弟とは同じ敷地内ながら別棟で祖母と暮らした。於菟は悲しい生い立ちに耐え、反抗もせず、グレもせず、立派な学者になった。そして、父の遺品を守った。

〈鷗外の遺品を語ることは、於菟を語ることでもある。/この人の努力があればこそ、戦争を頂点とする昭和史の波乱激動を超えて、鷗外の遺品は守られ、今に伝わっている。〉

 於菟は父の遺品を受け継ぎ、1936(昭和11)年赴任先の台湾に移した。台湾に骨を埋めるつもりだった。台湾はかつて鷗外が医療に従事した土地。於菟は遺品をそばに置き、常に父と向き合うことができた。

 台湾に来てすぐ継母死去。葬儀や後の法要にも戻る。継母との軋轢が消え、台湾での研究も生活も充実した。台北帝大同僚たちの協力があり、鷗外記念展覧会や文芸講演会を開催。鷗外の思い出を執筆した。

 ところが、戦争の時代。空襲を恐れ、遺品を郊外に疎開させる。日本敗戦により、台湾は中華民国の施政下になる。47(昭和22)年4月於菟一家は日本に引き揚げるが、遺品はわずかしか持ち運べない。残りは大学の同僚たちが保管してくれる。国交が回復して、53(昭和28)年92000点余りが於菟の元に戻る。最後の遺品、宮芳平の絵2点と中村不折筆の詩の額1点が返還されたのは1968(昭和43)年12月。於菟の死から1年後だった。

鷗外遺品は於菟の孤独の象徴だったが、台湾の友との友情・信頼の証となった。森鷗外記念館に保存、展示されている。

 宮芳平と鷗外、鷗外作品「半生」のこと、於菟の医学研究や随筆、鷗外の詩と遺品返還に奔走した杜聰明漢詩の共鳴などなどエピソードがたくさん。

(平野)