2021年1月23日土曜日

うつせみはうつしみ

 1.21 「朝日」朝刊文化欄に安野光雅追悼記事。谷川俊太郎が安野と共につくった本から3冊あげていて、持っていない本を注文。

 1.22 鈴木創士『うつせみ』(作品社)読了。先日、「変なフランス文学者が書く変なおじいさん・おじさん、らしい」とめっちゃええ加減な紹介をした。

「第一章 日誌」は、「僕」が、「おじいさん」の日記と「おじさん」の手記を盗み見て日誌に転載。「おじいさん」の日記は荷風を気取って「脱腸亭日乗」、ちょっと飛んでしまっている。「おじさん」は難解、哲学あり文学あり、パロディや幻想小説も書く。確かに変な話ばっかり。

 「僕」の日誌は20155月某日に始まり、201912月某日文章途中で突然終了。

「第二章 廃址」はがらっと様相が変わる。半世紀以上ぶりに「僕」の従兄=「私」が「僕」の家を訪れる。「私」は海外生活が長く、「僕」の消息は不明だった。家は荒れ放題になっている。部屋の中にカバンを発見。中に「僕」の「日誌」が入っていた。「私」は「僕」と幼ななじみであるが、「おじいさん」も「おじさん」も心当たりはない。「僕」はかなりの病弱で、長生きしたと考えにくい。「日誌」の日付だと「僕」は老年に達していたことになる。日付がデタラメ、すべて創作と考えられる。廃屋は12年の荒れようではない。では、「僕」は何ゆえ、何のために創作の日誌を書いたのか。「私」は思いを巡らす。

「第二章」冒頭、著者が詩を掲げる。

〈破れた靴の底に/冬がいたつき/この旅愁をはこぶみちに――//霧は硝子のやうに冷たい。  詩村映二「虚身(うつしみ)」(『カツベン』より)〉

詩村は戦前の活動写真弁士で、詩も書いた。トーキー反対労働争議で逮捕され、神戸詩人事件でも検挙された。映画の世界を離れ、戦後は露天商。『カツベン』(みずのわ出版)は詩人・季村敏夫が詩村の詩・文、資料をまとめた労作。

日誌すべてが「僕」の創作だとしても、長い海外生活を送る友と恋人「異邦の女」、「阿片」(末期ガンの鎮痛剤使用)など「私」につながる記述がある。「おじいさん」の手記に語られている友人の弟の広島被爆体験については、「私」が「僕」の父親のものであることを明かす。

「私」は「僕」との思い出の神社、森に行く。蝉の抜け殻や鳴き声など記憶の風景・感覚を取り戻せない。しかし、あの「家」は確かに存在している。もう一度「僕」の家に。

……そう、私は古い映画のスクリーンのなかに入り込んでいたのであった。/他愛ない無声映画であった。活弁士はいるのであろうか。(中略)たった一日だけの映画。一日は、逆向きに思いを馳せると、一日以上の意味をもつことがある。いや、そうではない。朝に生まれた蜉蝣が夕暮れに死ぬように、一日はこんなにも短いし、それどころか一日などというものはないのだ。〉

「私」は女性とすれ違う。「異邦の女」か?

 詩村の詩に触発された作品、と考える。「うつせみ」は「空蝉」「虚身(うつしみ)」だが、「うつしみ」は「現身」=生きている身でもある。

 著者の生まれ育った東灘区の御影や魚崎、岡本の景色が語られる。わが家近くのモダン寺や雅叙園ホテルも登場するが、ちょっと怪しい場所として。生まれ育った身にはその雰囲気、わかる。



(平野)