■ 足立巻一 『やちまた』(上・下) 中公文庫 各1200円+税
足立については本ブログでも何度か紹介している。1913年東京生まれ、関西学院中等部から神宮皇学館に進学。戦後、高校教師、新聞記者を経て、放送局勤務、作家活動。大阪文学学校の講師、大阪芸術大学、神戸女子大学で教授。1985年死去。
書名「やちまた」は「八衢」、道がいくつにも分れる所、迷いやすいたとえにも使う。国学者・本居宣長の長男、本居春庭(はるにわ)の著作「詞の八衢(ことばのやちまた)」から。私たちが古文の授業で苦しむ国文法の研究した人。春庭は主に動詞を研究し、「詞の八衢」では活用を分類した。動詞活用の法則と名称はこの人の功績によってほぼ決定された。
本書は、春庭の評伝であり、「詞の八衢」成立の過程を書きながら、足立の学生時代から本書執筆までの自伝でもある。
春庭は1763年(宝暦13)伊勢松阪生まれ、宣長の長男。幼時から宣長の講義を受け、著作・編集を手伝った。29歳頃から眼を患い、32歳で失明。宣長は将来を心配し、京都の針医者に入門させた。35歳で開業し、かたわら国学と歌を教えた。
足立は皇学館の文法学概論の授業でこの盲目の学者について知った。
「不思議ですねえ……語学者には春庭のような不幸な人や、世間から偏屈といわれる人が多いようですねえ……」
奇妙なことに、そのつぶやきのような声が、突然、私を射た。盲管銃創の痛さがあった。わたしは教授の視線につりこまれたように、窓を見た。そこには赤松の幹があり、まだらの陽ざしがゆれ、ゆれるごとになにかがしずかに燃えているように見えた。
皇学館は当時官立の専門学校で、卒業すると神主と中学国語教師の資格を得られた。学資は安く、貧しい家庭の学生が多かった。足立も伯父の世話になっていた。
足立は、病で休学中の友人を見舞う。親戚に面倒を見てもらっていたが、そこも破産し、卒業後の大学進学をあきらめた。神主にも教師にもならず、早く働かねばならない、と彼はさびしそうに言った。そして、脈絡もなく言った。きみが春庭を研究する気になったのは彼が盲目だからで、彼の学問ではない、と。
わたしは、「ちがう。ことばなんだ」と反論しようと思ったが、やめた。いわれてみれば、わたしが春庭に持つ興味は、学問とは呼べないものかもしれなかった。春庭への関心は国語学の時間に白江教授がふともらした「ことばとはふしぎなものですねえ」という吐息のようなものにはじまり、春庭という歴史的人間のなかにことばの諸相が凝縮されているように思われ、そこへ接近していったのもわたし自身何も学問のつもりではなかったし、しいていえば一個の詩論に近いものであった。それが、とんでもない方角へひろがってしまった。春庭の語学説の評価はほぼ正当に定まっているが、その業績の過程は国語学界でも放置されていることから春庭の追体験にはいりこんで、いまではその人生そのものに興味が移ってしまい、あげくはラチもない。
しかし、足立は学問であろうとなかろうと春庭に魅せられてしまった。「毒を食らわば皿まで」と笑った。
たしかに、わたしにとって春庭は毒にちがいなかった。その毒はがらんとした闇のなかで、菌のように乱舞するのである。
1968年~73年「天秤」連載、74年河出書房新社より単行本(90年新装版)、95年朝日文芸文庫。
本文・年譜など1000ページ、松永伍一・吉川幸次郎よる書評、呉智英のエッセイを付す。(平野)まだ上巻しか読めていない。
「ほんまにWEB」〈しろやぎ・くろやぎ〉更新。
西加奈子『サラバ!』の直筆サインを展示していたら、慌てもんの大阪のおばちゃん、本屋がなくなると勘違い。