■ 久世光彦 『蕭々館日録』 中公文庫 2004年(単行本は01年中央公論社刊)
「とりあえず世間では、小説家で通っている」児島蕭蕭(しょうしょう)の家(本郷弥生町)に、人気作家九鬼、『文藝春秋』蒲池、美学者迷々、精神科医並川、金貸し中馬、『中央公論』新米編集者雪平たちが何やかやと集まって来る。語り手は蕭蕭の娘麗子(5歳)。蕭蕭が岸田劉生「麗子像」に感動、おかっぱ頭に赤い着物を着せられている。この子が賢く弁も立ち、おませ、母の手伝いもする。2軒おいて隣の比呂志(6歳)は「しばらく物を考えないと、智恵が脳に貯まり過ぎて重く」なるほど頭脳優秀。ふたりは大人たちの話にまじって、彼らを驚かせる。
蕭蕭は小島政二郎、九鬼は芥川龍之介、蒲池は菊池寛のこと。他の作家たちの名は実名で出てくる。大正末から昭和初めの時代の様子も描かれている。
九鬼は精神的・肉体的に疲れている。みんな九鬼のことが大好きで心配している。
5月の夜、作品をけなし合う「黒豹会」(こくひょうかい)を開く。九鬼のための会ではないが彼に来てほしいと思っている。ものぐさな蕭蕭の妻も九鬼の好きな天ぷらを用意。遅れてやって来た九鬼が亡くなった母親の話をし、蕭蕭に借りていた本を返す。
《……一応さりげなさそうに装ってはいるが、誰が見たって身辺の整理をしているとしか思えない九鬼さんの様子だった。父さまはみっともなく狼狽えて、プイとそっぽを向く。あたしは九鬼さんに腹が立って、口の中が熱くなった。――九鬼さん、甘えてはいけません。この間うちから、みんな九鬼さんのことを心配しているのです。九鬼さんの才を惜しみ、九鬼さんの人柄が好きだから、ハラハラしながら、もう一度しっかり生きてくれるよう祈っているのですよ。……》
麗子が怒りを爆発させようとした瞬間、中馬が創作した講談「十兵衛旅日記」を大声で語り出した。白扇を打つ呼吸も見事で、蒲池がやんやと声を上げ、九鬼は「体を海老みたいに折り曲げて、苦しそうに咳き込みながら笑い転げている」。蕭蕭も笑い、迷々は興奮して雪平の頭を叩いている。
《あたしは心の中で中馬さんに頭を下げた。中馬さん、ありがとう。あなたの機転で、九鬼さんが笑ってくれました。――中馬さんは、俯いて真っ白なハンカチで目を拭っていた。》
7月23日、九鬼以外の人たちはまたも蕭々館に集まっている。九鬼は彼らに借りた本をすべて送り返していた。麗子は書庫で昼寝していて九鬼の声を聞いた。自作を読んでくれている。目覚めてその原稿を発見する。清国の女性革命家の話。読んでいると、空から怖しい音がした。みんなが庭に飛び出す。
《……石段に立って、比呂志くんが震えながら上野の空を指差していた。キラキラ輝く光の雲の塊が、ちょうどあたしたちの頭の上を越えて、上野のお山の向こうに消えていくところだった。(中略)――あたしと比呂志くんは、弥生坂の石段でしっかり抱き合っていた。比呂志くんが、泣きながら「九鬼さーん」と叫んだ。まるで、さっきの〈あれ〉が九鬼さんだったみたいに、あたしたちは「九鬼さーん」と、何度も呼んだ。涙は、いつまでも止まらなかった。》
1927年昭和2年7月24日明け方、芥川龍之介服毒自殺。
(平野)8.11から13、盆休み帰って来ない子どもたちに会いにこっちから上京。その旅の本。