■ 金子國義 『美貌帖』 河出書房新社 2600円+税 装幀・著者
画家の自伝。
1936年埼玉県生まれ、生家は織物工場を営んだ。家屋は谷崎『陰翳礼讃』の雰囲気。家族は芸事好きで、西洋文明にも理解があった。國義少年も茶道、花道、書道、謡曲を習い、自然に書画・骨董、着物、料理、器など日本文化に興味が広がった。叔父に連れられ、少女歌劇を観て「西洋の薫りの洗礼」を受ける。
ミッションスクール時代、授業中に絵ばかり描いていることで、母親は先生に呼び出される。母は言った。「教科書に描くのは止めさせますが、この子は絵描きにさせるつもりですから……」
友人と映画館のはしご。アメ横の外国製品のデザインに憧れ、銀座の洋書売り場で雑誌や画集を見た。
大学在学中に舞台美術家・長坂元弘(六代目尾上菊五郎の弟子)に師事。絵は独学。65年澁澤龍彦の『O嬢の物語』の装幀・挿絵を担当。67年画壇デビュー(個展)。
帯の言葉「絢爛たる美貌の軌跡」の「美貌」には「エレガンス」とルビがある。家庭環境、家族、友のこと。好きな舞台、映画、音楽、バレエ、文学の話。文学者、俳優、芸術家たちとの交友。絵は海外の芸術家にも認められ、さらに交友が広がる。
芸術は遊びの精神からでてくるものだと今でも信じて止まない。(略)
明日はどうなるのかとよく聞かれるが、明日はわからないというのが僕の主義。だから若い時代にも、こうなりたい、ああなりたいと意識したことはなかった。ただ遊んでいるうちに勉強して、結果的にそれが返ってきたというだけ。(略)(出会った人たち)各々成熟の度合いにばらつきがあるとはいえ、そのひとだけの個性をもっていた。極度に病的すぎず、涼しさを飄々と纏った、悪くて清らかな魂たち。彼や彼女らが取り巻く身辺は、穏やかな表情を見せながら、次々に光の粒が弾かれつづけているようで、いつも華やかでにぎにぎしかった。……
(平野)