1929年釜山生まれ、詩人。
植民地統治下、立派な日本人になることが大事と思っていた少年は解放(日本敗戦)後、民族自立運動に参加する。祖国分断に反対した。1948年4月、済州島の「農民一揆程度の貧弱な“武装”」蜂起から「惨酷な五月」と言われる内戦になった「四・三事件」。暴圧側は警察、右翼ら日本統治下の中心勢力。米軍も加わる。父親の奔走で脱出。4日間無人島に隠れ、密航船に乗り、鹿児島沖回りで紀伊半島、大阪湾から瀬戸内海。夜更けに浅瀬で降ろされる。同乗客たちはあっという間に消えてしまった。
船は何事もなかったようにゆるく向きを変えて、ポンポンポンと出ていってしまいました。いっときに涙があふれて、顔じゅうがぐちゃぐちゃになりました。私はまぎれもなく見知らぬ異国にひとり取り残された、天涯孤独の若者でした。……
父母と永遠の別れ。
後年、詩の友人に、着いたところは神戸の舞子だろうと教えられた。へたり込んで荷物の整理をすると、学生服の間から登山帽と『三太郎の日記』が出てきた。机の上に置きっぱなしにしていた本を父が入れてくれていた。線路をつたって駅に行くと、同乗者たちがいた。ひとりが大阪までの料金を教えてくれた。不審上陸者の通報があったのだろう。列車が来ると私服警官が乗り込み、同乗者たちを連れ出した。
登山帽をかぶって『三太郎の日記』に目を落としている私の前を、私服の刑事もそれとなくのぞき見ながら行ったり来たりしていました。……
ご本人も「運が良かった」と書いている。読んでいて、本当にそう思う。母国で生死の分かれ目が何度もある。親しい人が捕まり、行方不明になり、惨殺された。
親戚のいる鶴橋に向う。空腹なのにただ眠りたいだけ。死んでしまいそうでふらふら歩いていると、すれ違った人が声をかけてくれた。同乗者だった。
「あんたクァンタル(無人島)から来た青年ではないか?!」。まさに闇夜で仏の声を聞いた思いでした。涸れたはずの涙がどっと噴き出て、私はただうなずくばかりでした。……
「金井さん」という人。寝泊りできて、めしが食える仕事場を探してくれた。ローソク作りの住み込み店員になった。決して良い労働条件ではない。休みは月に2回。給料も遅延して分割払い。でも、「拝むばかりにありがたい仕事」だった。休みの日にぼんやりしていると、懐しい済州島のアクセントのある物売りの声が聞こえる。同郷の見覚えのあるおじさん。
私は「解放」(終戦)になるまでは、日本で暮らしている同胞たちは日本という赫々たる文明国に住んでいるのだから、さぞ文化水準の高い生活をしているものと思いこんでいました。……
「在日」で生きることの苦難、朝鮮戦争、民族活動、文学、民族教育……、辛く苦しいことを語ってくれる。それでもまだ明かせないことをかかえていると言う。
……四・三事件の負い目をこれからも背負って生きつづけねばならない者として、私はなおなお己に深く言い聞かせています。記憶せよ、和合せよと。