4.16 ずっとカゼ気味。かかりつけのお医者さんに診察してもらうにはPCR検査を受けなければならない。結果陰性だったので、本日ようやく診てもらえた。
閉店が決まっている本屋さん、落語文庫本と新書など。目当ての本1冊なし。仕入れを抑えているのでしょう。元町駅で「BIG ISSUE」429号。
4.17 午前中図書館、「光村弥兵衛」調べ。明治20年「神戸幼稚園」創立時に多額の寄付をした海運業者。息子が財産を使い尽くす。父子ともども波瀾万丈の人生。
■ 『一九二〇年代モダニズム詩集 稲垣足穂と竹中郁その周辺』
季村敏夫 高木彬 編 思潮社 2000円+税
1920年代に同人誌発表の詩を集める。詩人50名(別に児童の詩10編)のうち表題にある稲垣足穂と竹中郁は日本近代文学史の本に必ず出てくる。私の手持ち本だと伊藤整『近代日本の文学史』(夏葉社、2012年復刊)には衣巻省三と小野十三郎の名もある。神戸の詩史(君本昌久・安水稔和編『兵庫の詩人たち』1985年、同編『神戸の詩人たち』1984年、共に神戸新聞出版センター)だと、福原清、山村順、坂本遼、水町百窓、井上増吉、林喜芳、能登秀夫の名がある。他にも足穂研究書や季村の詩史著書に登場する人はいるが、ほぼ無名。50名のうち18名が関西学院出身者。
竹中が北原白秋に認められ、足穂が佐藤春夫門下に入る。ふたりがモダニズムの光の中を歩んだとすれば、日陰の詩人がはるかに多い。足穂は戦前放浪生活を送るが、戦後再評価される。
竹中・足穂に挑むように詩作した人、彼らに新しい息吹を与えた人、戦争・貧困の中に沈んだ人、コミュニズム・アナーキズムに傾斜した人、挫折、獄死、病死、中毒死、行方不明……、ほとんどの人が詩史に埋もれた。生年、没年不明者は計18名。
季村が巻頭に置いた詩人は受川三九郎(うけかわ・さんくろう、1896年~没年不明)。1921年関西学院神学部入学。23年竹中と共に白秋主宰「詩と音楽」の新進11人に選ばれた。25年同人誌「横顔」(編輯・発行人は関学生・犬飼武)に参加。ちょうど同誌から竹中が抜け、入れ替わるような形。「……第五号から第九号(二五年九月)まで関わるが、突如消息は絶たれた」。季村は受川の作品から竹中に「挑む姿勢」を読み取る。
二人目は足穂。三人目が猪原一郎(いはら・いちろう、本名太郎、生没年不詳)。足穂と関学時代からの親友と言っていいだろう。2年留年して年上。今東光とも親しい。掲載作品はお月様ショートショート。以下、石野重道、近藤正治、田中啓介、平岩混児……、「稲垣足穂という月のまわりの星座である」。
季村による本書解題より。受川の詩を引用して、
〈……「私はここで死者であり/かつ、生者」「生きつづける聖者」であり、「狂人」、これらの言葉は二十一世紀の現在に確実に届いている。阪神・淡路大震災に出会ってから、なにものかに促され、死者を生者として、一人ひとり招来することを試みてきた。詩史に記されることのなかった存在が、こうして一冊に収められた。書物のなかから、言葉が羽ばたくことを願っている。〉
彼らは光を浴びることなく時代を駆け抜けて行った。季村はその足跡をたどり、積み重なった詩の地層を掘り返す。
季村は前著『一九三〇年代モダニズム詩集』(みずのわ出版、2019年)で、3人の神戸モダニスト詩人を取り上げた。季村でさえ初見の詩人たち。生没年、名前の読みも不明。古い同人誌のわずかな情報から見出した。
『一九三〇年代モダニズム詩集』については本日記(2019.8.24)を。
http://hiranomegane.blogspot.com/2019/08/blog-post_24.html
(平野)私は作品一つひとつを評価することはできないけれど、季村の発掘作業に敬意を表する。
猪原のこと。足穂の「弥勒」に登場する「I」。足穂に佐藤春夫という作家を教えたのは猪原。共に上京して春夫宅に寄宿するが、猪原は精神的に不安定になり行動が危なくなる。今東光が猪原を評価し、「かかる境地を開拓した最初の人」と紹介した。足穂がこれに抗議し自らの独自性を主張する一方、療養中だった猪原支援に感謝した。
足穂の小説「或る小路の話」は猪原の短歌「キネマの月巷(ちまた)に昇る春なれば遠く声して子らは隠れぬ」へのオマージュ。生前足穂は、文学碑一切ご免、勝手に建てるなら猪原のこの歌をローマ字で旧トーアホテル近辺に、と語っていた。