8.7「朝日歌壇」より。
〈本屋また一軒無くなり新刊のにほひ楽しむ居場所うしなふ (鎌倉市)石川洋一〉
「朝日俳壇」より。
〈書を曝(さら)し我が青春を晒(さら)しけり (北本市)萩原行博〉
8.9 墓参り。お彼岸以来なので草茫々。先祖不孝は毎度のこと。巡回バスを待っていると、ご婦人グループの会話が耳に入る。キンキキッズのコンサートがなんのかんの、どう見ても皆さん80歳は超えておられる。
帰宅して買い物。本2冊。
新聞訃報、オリビア・ニュートンジョン、青木新門、中井久夫。ご冥福を。
8.10 訃報続く。三宅一生。
孫電話。妹はボキャブラリー増えている。とはいえ、食べ物の頭文字のみ。バナナの「バー」、チチボウロの「ボー」など。姉は図書館で借りた絵本を見せてくれる。
8.11 訃報、レイモンド・ブリッグズ。
8.12 家人はお盆休み、ヂヂだけ仕事。電車空いている。掃除、草刈り、暑さは前日までより少し収まる。
■ 谷崎潤一郎 『疎開日記 谷崎潤一郎終戦日記』 中公文庫 1000円+税
戦中・戦後の日記他、永井荷風・吉井勇との往復書簡、戦後第一作「A夫人の手紙」、和歌、古典芸能随筆など収録。
1923(大正12)年の関東大震災被災以来、谷崎は阪神間のあちこちで暮らした。長く住んだのが兵庫県武庫郡住吉村、魚崎町(共に現在神戸市東灘区)。
米軍機本土空襲が迫る。44(昭和19)年4月熱海の別荘に避難。
〈あり経なばまたもかへらん津の国の 住吉川の松の木かげに〉
〈ふるさとの花に心を残しつゝ たつや霞の莵原(うばら)住吉〉
摂津国莵原郡は神戸東部・芦屋の古名。谷崎にとって阪神間での生活は「ふるさと」になっていた。
空襲激化、45(昭和20)年5月岡山県津山・勝山に疎開する。家族を守る、を第一に考えている。
谷崎一家の疎開は、食うや食わず・命からがら、というのとは違う。家計のやり繰りに苦労はしているが、食べ物もお金もまだ余裕がある。谷崎にとって不自由なのは精神的芸術的生活。軍部によって『細雪』が掲載禁止になり発表できないが、執筆を続けていた。
8月13日、谷崎は岡山疎開中の荷風を勝山に招く。荷風は世捨て人のように暮らしていたが、親しい音楽家と共に疎開。彼も発表のあてのない作品を執筆。この時谷崎に原稿数本を託した。15日午前、荷風岡山に戻る。正午、天皇玉音放送。谷崎は米英から無条件降伏提議ありのみを聞き取った。
谷崎は独り荷風の原稿を読む。家族、町の人たちが次第に放送の内容を理解していく。戦争が終わった。
裕福な上方商人社会を描く谷崎、市井の庶民の生活を題材にする荷風。軍国主義に迎合せず、各々の文学世界を守り通した。
(平野)