■ 神戸新聞社 『神戸新聞の100日 阪神大震災、地域ジャーナリズムの戦い』 プレジデント社 1995年11月第1刷(手持ちは同年12月5刷)
角川文庫に入っている。
95年1月16日午後5時、JR三ノ宮駅南側の神戸新聞会館2階編集局フロア、翌日の朝刊作業の会議が始まった。事件・事故のない平穏な日だった。午後7時、共同通信社から「午後6時32分頃神戸で震度1の地震発生」という通信があったが、誰も大地震の予兆とは考えられなかった。新しいニュースが飛び込むもことはなく、深夜、会社は宿直者のみとなる。
17日午前5時46分、大地震発生。車で出勤途中の記者は追突されたような衝撃とともに目の前が光ったように感じた。信号待ちのトラックが跳ね飛んでいる。車を降りて街を見ると、ビルが傾き、住宅が崩れている。カメラのシャッターを切った。電柱は倒れ電線が垂れ下がっている。
「うそやろ」と大真面目に思った。今見たのは一瞬でしかない。しかし、うそでない証拠に、もう一度光ったフラッシュに、さっきの倒壊民家がいっそうはっきりと輪郭を現した。間違いなく街が破壊されている。
その頃、会社内は、天井が落ち、柱にひびが入り、窓ガラスは砕け散り、ロッカーは倒れ、電話・テレビが散乱……。防災の警報器がすべて鳴り、ガスが漏れ、非常消火の水や化学剤が放出されていた。停電。ビルはかろうじて立っていたが、外壁は亀裂だらけ。周辺の歩道は変形していた。
かろうじてつながっていた数本の電話で、宿直者は県内の総局・支局に連絡し、社員全員に呼び出しをかけた。多くの社員が「家族の不安な視線を振り切って家を飛び出した」。全壊の家から家族を救出して駆けつけた人。自宅を失った人。家族を亡くした人。家族の安否を確認できないまま勤務を続けた人もいる。
「使命感、記者魂、愛社精神……それはあっただろう。だが、本当に我々を奮い立たせたものは、もっと本能に近いものだったのではないかという気がする。人間が死ぬかもしれない危機的状況に陥ったとき、生きるためにもがくのに似ている。新聞が発行できないということは、新聞社の終焉を意味する。生きるために、新聞社の細胞であり、器官であり、手足であるすべての社員が本能的に動いた」
新聞制作は記事、編集から印刷、発送まですべてコンピュータ制御。本社で発行できない状態になった。神戸新聞と京都新聞は1年前に「緊急事態発生時の新聞発行援助協定」を結んでいた。京都新聞編集局は全面的に受け入れた。だが、現場は「協定」などどうでもよかった。
「仮に協定がなくても、何の躊躇もなく協力したでしょうね。ただ、協定があったおかげで社内の手続きは不要でした」
神戸新聞の創刊は1898年(明治31)2月。兵庫県域紙として無休刊の歴史を持つ。1918年米騒動の焼き打ちでも、45年の神戸大空襲による社屋消失でも、姉妹社・他社の協力で途切れさせなかった。
整理部長ら6人が京都新聞で原版を作成し、バイクで神戸市西区の製作センターに運ぶ。社長からあらゆる部門の社員、販売店、食堂スタッフまで実名で登場する。彼らを支えたのは京都新聞はじめ新聞各社や通信社、印刷会社、コンピュータ会社、建設会社などなど。それに読者。
1月24日朝刊に陳舜臣が寄稿した。
私たちは、ほとんど茫然自失のなかにいる。
それでも、人びとは動いている。このまちを生き返らせるために、けんめいに動いている。(略)神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢みた神戸ではないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、あたたかみのあるまち。自然が溢れ、ゆっくりながれおりる美(うる)わしの神戸よ。そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる。
(平野)