■ 島利栄子[文] 柳原一德[写真]
『親なき家の片づけ日記 信州坂北にて』
みずのわ出版 4200円+税
著者は1944年長野県東筑摩郡坂北村生まれ、千葉県在住の女性史研究家。「女性の日記から学ぶ会」主宰。「現存する日記を収集・保存、活用する途を探りながら、後生に残すべき女性文化のありようを考える」をテーマにする。
郷里の父母が亡くなって10年あまり。
「両親が暮らしていた家で親の遺品と向かい合いながら、どうしようどうしようと片づけに悶々としつつ、自分を確認した歳月」を綴る。
坂北へ帰るとなぜか方言がしきりに思い出される。言葉というのはその土地の空気や人との出会いで、身体が思い出すらしい。それはまた父や母の思い出に繋がるものである。
「ごたごたぞ」。これは父の口癖だった。「おじょこってもんせ」。これは母が自戒を込めてか、よく呟いていた。故郷へ帰ると思い出せるのに、故郷を離れるとなぜか思い出せないのだ。ああ、故郷のことば、親のことば。布団に入るとふいに心に浮かぶ。あまりの懐かしさに身をよじって泣く。
「ごた」は、話にならないほど道にはずれている、と島が注釈してくれている。
「おじょこ」は生意気ということだろうか?千葉から坂北まで月1回通う。自動車でも鉄道でも片道6~7時間かかるだろう。家と遺品の整理だけではない。墓、田畑、草取り、収穫。故郷の自然とご近所の人たちに助けられる。家族の協力も必要。思い出にひたりながら少しずつ片づける。親戚が集まり、勉強会を開き、畑を開放する。草取りに来てくれる友人もいる。作物で料理をしていると、母の思いがわかってくる。食器や衣服にも思い出がある。
父母が亡くなり十年たとうとするいま、すべておだやかになった。親のことを考えながら、私自身が少しずつ老化していくことを実感せざるをえない。認めたくないけれど、ここ数年老化が著しい。……
10年という年月は生き残っている者にも押し寄せる。夫の病いの他、家族にもいろいろなことが起きる。頻繁に帰ることもできなくなるだろう。短いようで長く、またその逆でもある。
この十年。まずは家を片づけ、次は有効利用しようと、ひたすらに走って来た。そうすることで、親を亡くした悲しみを忘れさせてもらえたとしたら、それはありがたいことではないか。感謝して、次のステップにたつち向かっていこう。きっと何とかなるだろう。大丈夫、大丈夫。
……人工光源に頼らずなるべく自然光で撮りたいときた日には、どうしてもお天気任せになってしまい、時間のロスばかり多くなる。無駄の多い仕事。無駄ついでに、素人玄人の区別なく上手く撮れてしまうほどによく出来た今日日のデジカメを拒絶し、画質はよいが、大きく重く利便性に欠けるペンタックス67一台で、今はなきコダック・エクタクロームをメインフィルムに据えて撮影を進めた。チャンスを逃せばそれまで、縁のなかったものとしてあきらめる。撮り進めていくなかで、島さんのご両親が使い込んだ遺品もさることながら、その背景としてあるこの土地の風光と生活文化、循環する人の営みといったものへと関心が広がっていった。……
愛すべき頑固者である。昨年末、梓会出版文化賞第30回記念特別賞受賞。
(平野)