■ 木内昇 『櫛挽道守 くしひきちもり』
集英社 2013年12月刊 1600円+税
木曽の宿場町でひっそり暮らす櫛職人一家。登瀬は父・吾助の姿を追いかけて櫛師の道を歩む。跡取りと見込まれていた弟が若死にする。母は娘に女の幸せを願う。妹とは気持ちがすれ違い、彼女は自分で結婚相手を見つけ、村を出てしまう。
江戸で修業した若者・実幸が吾助に入門し、登瀬の気持ちは焦る。彼は技術が優れているだけでなく、新しい流通方法も開拓し、一家の暮らしは良くなる。工芸技術を受け継ぐことに集中する登瀬には、彼の行動は理解できない。黒船来航、尊王攘夷、公武合体など政情不安は木曽の山奥にも及ぶ。登瀬にとって実幸はまさに“異文化”だった。登瀬は実幸を婿にするが、心を開くことはない。弟は生前、木曽の伝承話を脚色して絵草紙にして旅人に売っていた。登瀬は断片的にそれらを目にしていたが、まとまったものが水戸天狗党残党によってもたらされる。身重の身でありながら家族に内緒で絵草紙を見せてもらう。
弟から見た櫛師の父のことが描かれ、彼もその技術を身につけたいが、外の世界を知りたい、見聞を広め成長して故郷に帰り、そこが素晴らしい場所だと知る、父と姉と共に櫛挽の道を歩む……。
弟が描いた物語は夫・実幸が辿った道ではないかと気づく。心配してくれた夫に詫びる。
「しがし子ができると変わるものだんね。あんねに案じてくれで」
「そうやないで。確かに子のことも気に掛かったけどやな、むしろ、登瀬のことやで。……いや、ちゃうな。登瀬というよりその腕や。櫛挽く腕や。あんたの腕はもう心棒を持っとる。揺るぎない場所を知っとって、そこに行き着こうとしとる。わしにはまだそれがない。……」
吾助は長年の疲れで寝たきり状態。寝間から登瀬を呼んだ。
父はかすかな咳払いをした。それから、ゆっくり口を開いた。
「ええ拍子だ」そう、言った。
「え?」
「こごにいるとよく聞こえるだに。櫛挽く音が」
登瀬の膝に置いた手に自然と力がこもる。
「われやん夫婦の拍子はとてもええ。銘々の拍子だで、揃ってはないだども、ふたつ合わさるとなんともきれいだ。こんねにきれいな拍子をおらは聞いだことがないだでな」
あまりのことに声が出なかった。ただぼんやりと、皺の深く刻まれた父の顔を見つめていた。……
(平野)