2016年3月18日金曜日

若い沙漠


 『野呂邦暢小説集成6 猟銃・愛についてのデッサン』 文遊社 3300円+税

 男女関係の心理サスペンス、ミステリー作品など21篇収録。
「愛についてのデッサン」は、父の古本屋を継いだ佐古啓介が本と人を探して旅をする連作集。
 私は昔読んだのに忘れている話がいくつかある。啓介が神戸を訪問する「若い沙漠」も抜け落ちていて、トアロードでソーセージを食べる場面で、ああ~。

 啓介の店に作業着姿の老人が詩の棚に通ってきている。服は汚れ、酒の臭いもする。

《詩集をめくるときの表情は労務者のそれではなかった。》

 彼が熱心に読んでいる詩集は啓介も好きな詩人のもの。ある日、本を持ってポケットの金を確認しながら勘定場に近づいて来たが、引き返す。啓介は金が足りないなら値引きしてもいいと思った。その本が気になり、確認してみると、裏表紙の内側に1万円札がはさまっていた。本は2000円だから、8000円儲けることができる。老人の狙いはこれだと思った。彼がまた現れて詩集と1000円札2枚を差し出し、本に1万円がはさまっていると告げた。啓介は1000円札を1枚返した。

「どうして? 勉強してくれるわけかね」
「ええ、お客さんが黙ってたらそのままお売りしたでしょうからね」
「ふん……

 お茶をすすめ、話をした。老人は、詩人と古くからの友人で共に九州人だと言う。啓介の父親も長崎出身。

《老人はふっと遠くを見るような目になって敗戦後一度も九州へ帰っていない、とつぶやいた。(後略)》

店に来た文学研究者・岡田が、老人はかつての流行作家だと教えてくれる。文壇の話を直接聞いたことがあった。啓介は老人とのいきさつを話した。

……痩せても枯れてもそこが作家と俗人の違いだな」

老人は詩人志望だったが生活のために時代物からエロ小説まで書いた。活躍した期間は短かった。啓介は「詩は詩、生活は生活だ」という信念だが、岡田は「理想論、おまえは潔癖すぎる」と言う。啓介は、金のことを知っていて知らん顔した自分を疎ましく思う。古本屋になるまでは理想があった。扱うものは書物だ、と。今は金の計算ばかりで、ただの商売人だとむなしくなる。何度も読んだ詩集を読み返した。

「雨」 安西均
僕はふと街の片ほとりで逢ふた
雨のなかを洋傘(かさ)もささずに立ちつくしてゐる
ポオル・マリイ・ヴェルレエヌ
仏蘭西の古い都にふる雨はひとりの詩人の目を濡らし
ひとりの詩人の涙は世界中を濡らす
どうやらその雨はぼくがたどりついたばかりの若い沙漠をも
少し。

……(若い沙漠、か)と胸の裡でつぶやいた。自分の日常がまさしくそうではないか。夜ふけ、好きな詩集をひもとくことで得られるささやかな歓びが日々の糧を手に入れるための戦いという沙漠のオアシスだ、と思った。(後略)》

 神戸の話は作家志望の友人のこと。こっちは俗物中の俗物。同人誌『海賊』に発表した作品が好評で、権威ある新人賞の候補になるらしい。啓介が小説の話をしようとしても賞のことしかしゃべらない。既に受賞を確信し、受賞後の生活設計をしている。そのうえ啓介のことを俗物と言う。もしも彼が何十年後かに古本屋の本の中に金を見つけたら……、啓介は彼の行動を想像してしまう。

(平野)
ヴェルレーヌの詩「われの心に涙ふる」。堀口大學訳詩集「月下の一群」で知られる。
《巷に雨の降る如く われの心に涙ふる。 かくも心に(にじ)み入る この悲みは何ならん?(後略)》