2016年6月2日木曜日

一縷の川


 直井潔 『一縷の川』 新潮社 1977

 本書の空襲場面は長田区北部、高取山の麓。主人公・溝井勇三は戦地で赤痢にかかり、全身の関節が曲がらない病気を併発。家族にできるだけ負担をかけたくない思いから、傷痍軍人療養所に入所退所を繰り返す。45(昭和20)年314日、1年ぶりに兄の家に戻る。近所の商店は閉ざされ、家々の窓ガラスは縦横斜めに紙が貼られ、狭い庭に防空壕。その夜、大阪大空襲。B29の大編隊が神戸の空を通過した。そして、16日夜から17日にかけて神戸に。
《既に半ば予測されていて、その夕刻過ぎから遠く南方海上を北進するB29の情報が刻々ラジオを通して伝えられていたが、ただ手を拱いてきいているより仕方なかった。(後略)》
 兄が防空壕に入れるかどうか心配してくれるが、勇三は腰を屈められない。家に残る。
《やがてラジオが淡路島上空侵入を伝える頃には悪魔のようなB29の黒い機影が夜空に大きい鱶のようにうごめいて見え、その特有の鈍い金属音と共にひしひし身に押し迫るのを感じた。僕はもうすっかり観念した。》
 大倉山の高射砲が一機撃墜。近所の家から歓声が聞こえた。
《しかしその歓声も束の間続々飛来するB29の編隊から落とされる焼夷弾があたかも激しい雷鳴をまじえた大夕立のような物凄い音をたてて降りかかって来た。そしてそれまでわめきぱなしだったラジオのマイクから、「神戸市民よ、健闘せよ。」野球放送まがいのアナウンサーの声を最後にして、あとは上空を乱舞するB29のただ蹂躙にまかすばかりだった。
 急にあたりは火災が巻き起す風に木々はその梢を鳴らし騒然とした感じで、その中をいつか一面に煙がたちこめその臭いが強く鼻をついて来た。》
 家は山の谷間のような場所で直撃はなかった。前の丘の林から火の手があがり、焼夷弾の破裂音だけが聞こえる。背後の高台の家は炎上したよう。
《市中から避難して来たらしい人達が次々わめきながら家の前の坂道を上って行く。
「わしはほっといて、お前等だけ逃げ言うて、おばあさんだけが火の中で死んでくれましてなあ。」そんな行く人同士の話も耳に入った。
 果してどの位の時間がたったか。半時間だったか、一時間だったか、もっとそれ以上だったか、文字通りこの世の地獄図絵そのままの時間も、いつか姿を消したB29の撤去と共に、周囲の谷間は鼻をつくような闇と静けさが取戻された。しかしそこから見下しになっている市内の方はまだ盛んに燃え盛っていると見え、それからも長い間余燼の火明りが望見された。(後略)》
 直井の自伝小説。「一生の不具廃疾の体」になりながら文学を志し、家族・友人・師に支えられた。

直井潔19151997、本名溝井勇三)、広島県生まれ、神戸育ち。滝川中学校卒業後、区役所勤務。37(昭和12)年応召、38年病気のため送還された。療養中、志賀直哉作品に傾倒、特に『暗夜行路』の主人公が悲劇を克服していく姿に感動する。志賀に手紙を書き、作品を見てもらうようになる。志賀の推薦で『改造』(434月号)に「清流」が掲載される。神戸空襲後、東京の小山書店から手紙、大空襲で出版予定の単行本『清流』が焼失したことを告げられる。再度印刷するも、5月の空襲でまた焼ける。しかし、小山書店戦後最初の出版物として世に出る。52(昭和27)年「淵」、69(昭和44)年「歓喜」が芥川賞候補。『一縷の川』は77(昭和52)年平林たい子文学賞受賞。
 60(昭和35)年、療養所で出会った女性と結婚、彼女は空襲で脊椎を損傷して車椅子生活。夫婦は明石の自宅で習字と数学の塾を開いた。
 志賀は出版社に直井の作品掲載・出版を働きかけた。直井が師に会えたのは693月、初めて手紙を書いてから27年経っていた。
《「そう、随分になるね。」微笑されながらいわれました。(中略)
「しかし君はほんとうにえらいよ。その体でなかなか出来ない事だ。よくやって来たよ。」そういうお言葉が一瞬涙声を含んできかれ、思わず僕は先生の方を見返すようにしました。そしてそこに慈愛溢れる先生の視線に接してぐっと胸一杯の熱さがこみあげるのでした。》

(平野)
 文通だけで師弟関係が成立した。
 中央図書館で閲覧。