■ 西東三鬼 『神戸 続神戸 俳愚伝』
講談社文芸文庫 2000年5月刊
底本は75年出帆社刊。「神戸」は54年『俳句』(角川書店)に連載。講談社文芸文庫 2000年5月刊
三鬼は1942(昭和17)年に「東京のすべてから遁走して神戸に来た」。不倫相手の妊娠・出産、三鬼本人の重病、そして、所属していた「京大俳句」が治安維持法違反により、三鬼も検挙・拘留された。三鬼は歯科医を辞めて貿易会社に勤めていたが、その仕事も辞め、家庭を捨て、神戸に流れてきた。三鬼42歳。住まいはトアロードの「トーア・アパート・ホテル」(中山手通2丁目)。仕事は軍需産業のブローカー。貿易会社からのつながりだろう。
本書は、ホテルに長期滞在している奇妙で愉快で、でも善良な外国人たち女性たちとの交流を語るもの。三鬼は「センセイ」と呼ばれた。
三鬼は神戸にも空襲が来ることは確実と思い、山手にも部屋を確保していたが、ホテルに住んでいた。住人たちとの生活が楽しかった。しかし、43年の夏、おんぼろ異人館(山本通4丁目)に引っ越す。海水浴から戻って近所の銭湯でのこと、いろいろな言語が反響している。
《……素ッ裸の異国人達は、彼らの頭上から火の海が降る日が近づいているのに、正々、堂々としていた。その中に、我々二、三人の日本人だけが、タオルで大切に前をかくしてウロウロしていた。》
三鬼は思う。《……この隣人たちは、いざという時一発の焼夷弾も消さないだろう事を、今更はっきり見てしまった。》
同居人は同棲相手波子と犬、猫ほか小動物たち。花壇を畑にし、防空壕を作る。この家は戦後「三鬼館」と名付けられる。
《私の予想した通り、三鬼館に移転して間もなく、神戸は二回の空襲で焦土と化したが、私の化物屋敷は焼け残った。
ホテルは、これも私の予想通り、焼夷弾の雨の下で、またたく間に灰になったが、土蔵だけが焼け残った。そしてその中には、ホテルの持主が逃げる時に閉じ込めた、十数匹の猫が、扉の内側に山になって死んでいた、ということである。
焼けるホテルから逃げ出した酒場のマダム達は、思い思いの手廻品をぶらさげて、十数人がドッと三鬼館になだれ込んだので、私は再び、奇妙なホテルの再現の中に暮すことになったのである。》
住人たちの食料は、三鬼の畑の馬鈴薯、エジプト人「マジット氏」が「どこからか拾って来る、丸焼けの鶏」。乳児のために「中国人椅子直し君」が空襲で赤ちゃんを亡くした「中国婦人」を連れて来た。避難者たちは1、2ヵ月で「殆ど落ちつく所」へ落ちついて、2、3人が残った。
三鬼はホテルである娘に英語を教えていた。空襲の日、三鬼は彼女を捜した。
《私はまだ燃え盛る街の、路上に垂れた電線を飛び越え飛び越え、彼女の家へ走った。
彼女の路地の前の空地は、スリバチ形の防火池になっていた。その池のコンクリートの縁に、隙間もなく溺死体が並べてあった。
そこまで来る路上で、すでに私は多くの焼死体を見たのだが、少しも焼けたところのない、溺死体の姿は、周囲がまだ燃え盛っているだけに、むごたらしくて正視出来なかったが、もしやと思って池の縁を廻っているうちに、見覚えの夏服を着た、溺死体を発見した。(中略、彼女は弟を抱き、腕に波子にもらったバッグ)
そこまで見届けた私は、元来た道を一目散に走った。
途中で一度嘔吐した。
防火池をめぐる、生き残った者の号泣が、いつまでもうしろに聞えた。(後略)》
西東三鬼(1900~1962、本名・斎藤敬直)、岡山県苫田郡津山町(現在津山市)生まれ。俳句は病院歯科部長時代に患者さんに勧められて始めた。仲間に作品をプリントするから俳号をこしらえろと言われ、「即座にでたらめで、三鬼と答えた」。津山市のWEBサイトでは「サンキューのもじり」とある。連作、無季、リアリズムを詠む新しい俳句運動に参加。
昇降機しづかに雷の夜を昇る
特高警察は、「昇降機」を共産主義を表わして同志の闘争意識を高めたもの、と解釈した。戦争を題材にした句もある。
(平野)