■ 豊田和子 『記憶のなかの神戸 私の育ったまちと戦争』
シーズプランニング 1800円+税 2007年刊
戦時下の下町の暮らしを描く画文集。
豊田和子は1929(昭和4)年神戸市生まれ、81年から仏画を描く。45年3月17日の空襲時は高等女学校3年生、病気で工場動員に出られず学校居残り組、教師や同級生から非国民扱いだった。警察から空襲警報発令の場合は救護班として出動するよう命じられていた。住まいは湊東区上橘通(そうとうく・かみたちばなどおり、現在兵庫区西上橘通)、湊川神社と福原遊郭の間の商店街。17日未明警報のサイレン、救護どころではない。空地(強制疎開させられた家の跡地)へ逃げるが、そこに焼夷弾が落ちてくる。家に戻る。
《「危ない」と母が叫んだ。私の足の踵のすぐうしろに焼夷弾が落下し、地面につきささった。その途端に私の体は飛び上がり、体内から口へ、青い火が通り抜けたような衝撃を覚えた。》
焼夷弾は家の屋根をつき破り食卓を割り床で燃えている。隣の人がバケツを持って来てくれたが何の役にも立たない。表通りからも裏通りからも火が噴き出している。東の湊川神社に向かうが、北からも南からも人が逃げて来て、人であふれている。神戸駅に行くことにする。四方八方火に囲まれ、和子の防空頭巾もリュックも燃えている。髪の毛がパチパチと音を立てている。母が防火用水槽を見つけ、家族で飛び込んだ。
《……一畳ぐらいの広さの水槽に身を沈め、父が鉄兜に水を汲んでは頭にかけてくれた。目を開けると火の粉で目の玉が焼けるのでじっと目を閉じていた。息を吸えば煙ばかりが入ってくる。息が苦しくて苦しくて咽ってしまう。「泣いたらあかん」と、父が言うが泣いているのではない。息ができないのだ。》
悲鳴が聞こえる。何人も水槽に飛び込んでくる。
《火は風を呼ぶというが、ものすごい風の音と、ごうごうと燃えさかる火の音を、ただじっと目を閉じて聞いていた。ひときわすさまじい風の音に、一瞬目を開けた時、頭の上をミシンとか家具が木の葉のように飛んでいた。その火の中を悲痛な叫び声を上げながら逃げまどうひとたち、それは地獄絵そのものだった。》
赤ちゃんを背負った女の人がいた。モンペも赤ちゃんも燃えている。
《……丁度、私の前に親子が入ってきた。おんぶされた赤ん坊の背中が、私の胸のあたりにぴったりくっついていた。ヒーヒーとか細い声で、赤ちゃんは泣いていた。その声がだんだん弱くなり、やがて聞こえなくなった。》
B29の爆音、焼夷弾の音、人びとが唱える念仏……、和子は意識を失う。夜が明ける。水槽の水がなくなっていた。あの母親が水槽から出て歩き出すが、背中の赤ちゃんが死んでいるのに気づいていないだろう。和子たちもふらふら。リュックを地面におろしたとたん、男が奪って行った。
空襲から10日後、和子らの学年は繰り上げ卒業。家族で六甲の祖父宅に移る。そこは6月空襲でも無事だったが、8月6日に焼けた。親戚宅も焼け、父の職場の世話で神戸電鉄沿線の五社に引っ越す。終戦は3日遅れの新聞で知った。
《戦争が終わった。長くつらかった戦争がやっと終わった。それが一番先に頭に浮んだ正直な気持ちだった。
日本が戦争に負けたことを悲しく思うより、やっと戦争が終わったというなんともいえない解放感の方が大きかった。これからこの国がどうなっていくのか、私たちの生活がどうなっていくのか、不安はいっぱいあったけれど、とにかく、これで空襲がなくなるという安堵の気持ちが大きかった。》
(平野)