■ 足立巻一 『戦死ヤアワレ 無名兵士の記録』 新潮社 1982年刊
1945年足立は鹿児島に配属されていた。6月早々、本土決戦に備えて9泊10日の帰郷外泊許可が出た。「妻帯将兵に子種」をつけさせる意味もあった。足立の家族は3月17日の空襲後岡山県に疎開している。列車は何度もB29に襲われ、岡山まで3昼夜かかる。疎開先に着くと、妻は神戸の実家に。足立も向かう。須磨駅に立つ、一面焼け野原。
《その日は六月六日で前日の白昼、三百五〇機のB29が二十数編隊で来襲し、神戸市街はほとんど焼けつくしていたのである。》
市電が寸断されていて、須磨から妻の実家まで歩く。3月と前日の空襲の様子を聞く。
《三月十七日の夜は、霰をともなった強い北風が吹き荒れていた。午前二時五分、B29一機が侵入し、照明弾を投げて去ったかと思うと、町は真昼のように明るくなった。と、それを目標に六十機以上の編隊が殺到し、焼夷弾と小型爆弾による無差別絨緞攻撃を三時間にわたってつづけた。海港都市は火炎の町と化した。》
妻と2歳の娘と母は兵士が警備する防空壕に入った。避難してきた住民でいっぱいだった。幼い娘は泣かなかった。
《空襲警報が解除されて防空壕から出たとき、空は赤く焼けただれ、あたりはすべて瓦礫であった。当然、家は焼けたものと思われた。
母と妻は瓦礫の国道を放心してただ歩いた。道ばたには死体がボロのようにころがっている。》
足立は須磨駅まで荷物を運び、妻を先に岡山に帰す。勤務していた学校に寄り、須磨の自宅跡にも行った。
《住みなれたあたりは、一面の荒地に変わっていた。付近には大きな構えの旧家が多かったが、土蔵だけを残して消えている。家族は土蔵のなかに住んでいるらしい。
家のあとに立った。壁土が積もり、割れた瓦が散乱している。便所の肥壺だけが、ぽっこりくぼんでいる。焼け跡はひどく狭く見えて、こんなところに長年住んでいたのかとふしぎな気がした。》
翌朝足立は岡山に戻るが、すぐに帰隊しなければならない。休暇で空襲に遭い、妻と過ごしたのは神戸と岡山二晩だけだった。
(平野)