2016年6月7日火曜日

日本空襲記


 一色次郎 『日本空襲記』 文和書房 1972(昭和47)年6

 1944(昭和19)年54日から45821日まで、空襲の記録を中心にした克明な日記。大学ノート11冊分。各種通帳、兵器工場の資料、米軍が撒いた謀略伝単など資料多数 
 日記は、妻の通院から始まる。一色は幼いときから家族との縁が薄く、妻を「はじめてできた家族、といってもよい……」と書く。短期間しか住んでいない沖永良部島の自然にも育った鹿児島の文明にも警戒心を持ち、それらを拒絶する「怯えやすい心」をもっていた。この日記も不安な心で書きはじめた。妻の退院で少し中断している。空襲を記録するとは考えていなかった。
 一色は37(昭和12)年4月上京、42年結婚、妻カノコ(仮名)。文筆生活を志すがうまくいかず、工場勤め。徴用令(軍事産業などで働く者の移動が禁止)で工場を辞めることができない。医師が神経衰弱の診断書を書いてくれた。興亜日本社(海軍の慰問雑誌『戦線文庫』)、みたみ出版(児童雑誌『少国民文学』)を経て、西日本新聞社東京支社勤務。
 89日、福岡本社で会議のため東京駅出発、この時期に新しい雑誌を出す予定があった。10日大阪駅で乗り換え。神戸の様子。

《神戸も、山の手を一部残してそっくり焼けている。その黒い地面がだらだら傾いた下の海に、航空母艦がうかんでいる。外形は破損しているようでもないが、一隻の護衛艦もなくポツンとひとりで泊まっている。むかし、銀座の自動車を見るように、びっしり船がうかんでいた神戸港に今は航空母艦のほか一隻の船も見えなかった。須磨の海まできて、ようやく、砂浜に、傾いた一隻の木造船を見た。子供が遊び場にしている。》

 11日、広島駅停車時間にホームを歩く。死臭が充満。学生から惨状を聞き、車窓から景色を見て、原子爆弾の威力に驚く。本社では、新聞も出版も停戦交渉がまとまるまで話が進まず、待機。一色は佐賀にいる祖母を訪ね、一旦福岡に戻り、鹿児島に向かう。

 当ブログで書いた「815日」の話、『海の聖童女』執筆きっかけのこと。
 鉄道は空襲で分断されていて、熊本県の川尻駅から徒歩。避難民の行列が続く。

《素足で歩いている親子がある。父親と七、八歳の女児だけだ。母親の姿は見えない。顔も手足も首すじも異様に黒く、反対に唇だけが、ふやけたように白くなっている。埃だけのよごれではない。煤けている。ほかの避難民にくらべると所持品も少なかった。風呂敷包みをひとつ、父親が腰に結わえているだけだ。(中略)
「どちらからですか。どこからきたのですか」
 ふたりへ声をかけたが、どちらも私を見ようとしなかった。父親も子供も、睡りながら歩いているのだった。》

 顔中包帯で長い竹を杖にして足をひきずっている者(性別不明)、老婆一人、布団を背負う者、鍋釜を下げている者、カサだけ持っている者……、宇土駅まで来て、出るかどうかわからない汽車を待つ。なんとかして、鹿児島に帰りたいと思う。桜島の姿を眺めたいと思う。しかし、リュックの食料も金も少なくなっているし、本社に戻らねばならない。鹿児島を離れて8年、鹿児島弁が使えなくなっている。せめて鹿児島の言葉を一言でも聞きたいと思う。行列の人たちは皆無言。一色は鹿児島行きをあきらめ、子ども連れに米をあげようと思う。

《どうして、こんなにも子供の姿が目につくのだろう。どうして、子供たちは睡りながらまだ歩けるのだろう。どうして、泣いてくれないのだろう。元気な声で唱歌をうたってくれないのだろう。どうして、子どもたちがこんなにされてしまったのだろう。私はわめきたくなった。
「失礼ですが、お米を上げます」
 ひとりの母親の胸に、米の袋を押しつけた。母親はおじぎをして米を抱くと、そのまま歩いていく。こじきではないのに、どうして、ひとことお礼を言ってくれないのだろう。私はその強い故郷のなまりを、聞きたかったのに!》

 一色は歩いてきた道を戻る。味噌の入った弁当箱を老人にあげ、着替えも本も捨てる。

『海の聖童女』は家族愛の物語。しかし、現実の一色は家族関係に恵まれていなかった。夫婦の間に子どもはいなかった。本書の最後で、48年に妻と別れたことを記している。

(平野)ほんまにWEBの連載3本それぞれ2回分一挙に更新。担当ゴローちゃん奮闘、って、さぼってた?
http://www.honmani.net/index.html