■ 田村志津枝 『若山牧水 さびしかなし』 晶文社 2003年刊
図書館本。
著者は1944年台湾生まれ、長野県育ち、映画研究者でノンフィクション作家。著書、『悲情城市の人びと 台湾と日本のうた』、『台湾人と日本人 基隆中学「Fマン事件」』(共に晶文社)など。
1910(明治43)年秋、若山牧水が信州小諸の病院に約2ヵ月滞在した。著者の祖父が開業する任命堂田村病院、まだ著者の父が生まれる前のこと。著者は祖母や父から牧水エピソードを聞かされて育った。酔っ払い、酒の失敗、使用人に好かれたことなど。
〈……父からほんとうにたくさんの牧水にまつわる話を聞いた。そしてそれをくりかえし語りあうことで、私は父とすごす最後の時間をなんとか埋めた。父には風流なところはほとんどなく、歌などにとくに興味があったとも思えない。この家に暮らしたあいだに牧水が残したエピソードも、酒好きの若者らしく無軌道もいいところで、誇らしく語れるものなどあまりない。けれど牧水には、父のような人をも惹きつけるところがあったように思われる。〉
牧水が恋の苦しみから酒浸りになり悪所通いの果てに感染した病気、その治療だ。
担当したのは岩崎樫郎という若い医師。地元の歌の会に参加していて、牧水に手紙で添削を願った縁。岩崎は牧水の体面を慮って、院長に紹介もせず治療にあたったようだ。院長は牧水が歌人であることを知らず、山のように届く郵便物(雑誌編集部から投稿歌が転送されてくる)から、社会主義者が紛れ込んだのかと勘違いした。食客といえば聞こえはいいが、居候である。衣食住どころか、岩崎に借金までしている。治療費もどうだか。有名になりかけていた頃で、貧乏どん底だった。それでも牧水のまわりには地元の若い文化人たちが集まってくる。
小諸を離れても牧水と岩崎の交流は手紙で続いた。旅の途中での再会を牧水が随筆に残していて、このとき小諸で出会った若者たち2名が肺病で亡くなったことを知らされる。22(大正11)年、岩崎も独立開業してすぐに亡くなった。
25(大正14)年、牧水は講演と揮毫の旅行で小諸を訪れ、田村院長に挨拶した。
「小諸なる君が二階ゆながめたる浅間のすがた忘られぬかも」二階の部屋で岩崎と語りあった。窓からは浅間山、千曲川、日本アルプスが眺められた。
〈……年若く貧しかった牧水が、恋愛に苦しみ心身ともにくたびれはてて身をよせたのが、わたしの祖父の屋敷のなかの一室だった。その偶然のできごとが、九十年あまりのちの私に、物語をたどりなおしてみるという喜びをもたらした。〉
(平野)牧水の愛しい人も小諸に来た。男女の縺れは金の話になっていた。