■ 『日本随筆紀行第十九巻 神戸/兵庫 ふり向けば港の灯』 作品社 1987年4月刊
港におくる 竹中郁
神戸
神戸の明治情緒を求めて 佐藤愛子ノスタルジア神戸 淀川長治
金星台から 陳舜臣
他人の顔をした町 花森安治
筒井康隆、横溝正史、野坂昭如 ……
阪神
別当薫、小出楢重、大宅壮一、田辺聖子
播磨―淡路
岩野泡鳴、足立巻一、長塚節、竹内勝太郎 ……
丹波―但馬
深尾須磨子、岡部伊都子、椎名麟三 ……
装幀 菊地信義 装画 小高佳子
「神戸の港」 田宮虎彦
田宮(1911~1988)は東京生まれ、作家。父の転勤(船員)で9歳から神戸暮らし。
私は神戸で育ったので、神戸のことはよく小説の中に書いている。夜おそく町並も寝しずまった頃、港の中を小蒸汽の走っていくポンポンポン……という機関のおとや、ピュウッーとなきしきるようにきこえてくる汽笛のひびきは、今でも思いだすとなつかしくてたまらない。幼かった頃、自分が虚無の中にいるような切なさをわけもなく感じている時に、そういう淋しいひびきが聞えてくるのであった。また外国航路の大きな汽船の、ボオッーとひびいて来る汽笛もさびしかった。何故、こんな淋しい思いばかりがまつわりついていたのだろう。船というものが、別れを心にいだかせるからだろうか。それもあるに違いない。海そのものも、もともと淋しい思いをいだかせるものかもしれない。……
神戸一中時代、友人が学校をやめてブラジルに旅立つのを見送った。ブラジル移民は国策で、別れの悲しみよりも“海外雄飛”の喜びを感じた。戦争中、新潟から満州に行く船で移民する人たちと一緒だった。満州移民も国策だったが、ここでは強い“別れの悲しみ”を見た。
南にひらく神戸の海と北にむかう新潟の海、それだけの違いで二つの別れの違いの大きさを感じた。神戸港について、海からの美しさも語る。毎年夏、両親の郷里・土佐に行くのは海路、700tくらいの滋賀丸。
……白波が船尾にわきたつ。私は、甲板にたって、それをみている。桟橋の灯のかたまりが少しずつと遠ざかっていく。海岸通りの町並の灯が、港にゆらめくかげをうかべる。そして、やがて、市章字山や測候所山(そんな言葉が今も残っているかどうか)の山腹につらなる街の灯がきらきらときらめいて、夜の闇の奥につらなって見えはじめる。
その頃、神戸市の人口は六十万か七十万であった。その神戸の町の家々の窓の数ほどの灯が、遠く港外に出た滋賀丸の甲板からみえていた。
田宮は小学4年生の時、作文でその輝きを「ダイヤモンドのよう」と書いた。先生が皆に読んで聞かせてから、冷たく言った。「人の書いた文章をうつして来たって先生はだまされません」。
確かに田宮少年はダイヤモンドなど見たことはなかった。でもね、彼の心は神戸の灯をそう感じたのだよ。