2014年11月12日水曜日

海野十三敗戦日記


 『海野十三敗戦日記』 橋本哲男編 中公文庫BIBLIO 20057月刊

元本は1971年講談社より。

 海野十三(うんのじゅうざ、本名・佐野昌一、18971949)、徳島県生まれ。父の転勤で旧制中学(神戸一中)時代を神戸で過ごす。逓信省電気試験所に勤めるかたわら技術専門書執筆。また推理小説、科学小説を発表、日本SF小説の父と呼ばれる。丘丘十郎(おかきゅうじゅうろう)など複数のペンネームを使っている。

目次
空襲都日記
降伏日記(空襲都日記第二部)
愛と悲しみの祖国に  橋本哲男
解説  長山靖生
付録  秘密の書斎
 
 二週間ほど前より、帝都もかねて覚悟していたとおり「空襲される都」とはなった。
 米機B29の編隊は、三日にあげず何十機も頭上にきて、爆弾と焼夷弾の雨をふらせ、あるいは、悠々と偵察して去る。
 味方の戦闘機の攻撃もはげしくなり、地上部隊の高射擊もだいぶんうまくなった。被害は今までのところ軽微である。
 これからさらに空襲は激化して行くであろう。そこで特に、この「空襲都日記」をこしらえ、後日の用のため、記録をとっておくことにした。
 昭和十九年十二月七日
 
 編者の橋本は学生時代に海野に師事、戦後毎日新聞記者。彼によると、海野は昭和13年に小説「東京空爆」(雑誌『キング』掲載)を書き、焼夷弾による東京空襲を予想、というより警告している。そのまま載せた雑誌も雑誌だが、海野は海軍報道部に呼び出され叱責された。「帝都上空には、敵機は一機も入れないのだ!」と。
 海野が自宅に防空壕を作ったのは日米開戦前の昭和161月。近所の人たちが不思議がった。防空壕の発想はずっと前にあり、その設計図が本書所収の「秘密の書斎」で、昭和1312月号『新青年』に掲載されている。
 日記、はじめは余裕がある。敵機は少数で被害も軽微だった。近所の子どもたちも元気に騒いでいる。しかし、来襲回数が増え、各地の被害が耳に入ってくる。
 3月9日~10日、東京大空襲。長女を夫の実家・鹿児島まで送って行く。行き帰り、汽車から神戸の町並みが見えた。神戸も大空襲(3月17日)の直後。

……往路、車中より神戸の南部の工場地帯が今もなお燃えつづけているのを見て、「畜生、かたきをうつぞ」と心に叫ばしめた。帰途は車窓が山側に位していたので肝腎の南側の方は見られなかった。しかし、山側を見ていると、須磨迄は大丈夫であったが、林田区に入ると俄然大きく焼けていた。三菱電機の研究所のあった建物も焼けていた。湊川新開地も焼け、福原も焼けていた。市電の南側が少し残って、神戸駅迄に及んでいる。
 裁判所焼け、となりの市庁は無事。それから東へ行って北長狭の辺、三宮の辺が焼けていた。県庁は残っているが、菊水は空し。惜しいことだ。あのコレクションは。さらに東へ行って元神戸一中に至るあたりが焼け、グラウンドで延焼を喰いとめている様子。
 さらに東へ行って、御影が焼けている。線路ぞいに焼けていて、元の朝永の家も焼けてしまったように見える。
 岡東の話では、一中も三中も焼けたというが、とにかく山の手は静かに残っていて、なつかしい神戸の面影を見せていた。……

「菊水」は菊水酒造? 菊水総本店? 「コレクション」含め、今のところ不明。
「岡東(おかとう)」は一中の同級生、東京在住。「朝永」も同級生だろう。

 昭和201231日の日記。
 ああ昭和二十年! 凶悪な年なりき。言語道断、死中に活を拾い、生中に死に追われ、幾度か転々。或は生ける屍となり、或は又断腸の想いに男泣きに泣く。而も配線の実相は未だ展開し尽くされしにあらず、更に来たるべき年へ延びんとす。生きることの難しさよ!
 さりながら、我が途は定まれり。生命ある限りは、科学技術の普及と科学小説の振興に最後の努力を払わん。
 ラジオにて寛永寺の除夜の鐘の音を聞く。平和来。昨年は「敵機なお頭上に来りて年明くる」と一句したりけるが、本年は敵機もなく、句もなく、寝床にもぐり込む。

(平野)

 林哲夫さんがブログでロードス書房・大安さんのことを。
 昨日、偶然大安夫人にお会いした。市会に行かれる途中。古書店は継続しておられる由。
 林哲夫ブログはこちら。
http://sumus2013.exblog.jp/