■ 野坂昭如 『文壇』 文春文庫 2005年4月刊
単行本は02年文藝春秋、同年泉鏡花文学賞。
野坂は1963年「エロ事師たち」で小説家デビュー。週刊誌ライター、CMソング作詞、放送台本、たまに業界人や作家たちとエロ映画新作上映会を催していた。
65年、編集者に誘われて中央公論新人賞パーティー(受賞者は色川武大)、これが“文壇”デビュー。高校の先輩・丸谷才一に服装について尋ねた。当時の文壇の一方の雄・舟橋聖一に「子犬が尻尾ふる態で」挨拶。実は前夜、某料理屋の一室で舟橋と取り巻きたちに8ミリエロ映画を見せていた。
舟橋は妖しい写し画、熱心に観入って、上映中、同席の何やかや口をはさむ中、一言もいわず、一巻十分ほどが終ると、若い付き人に酌をさせる。女はいなかった。……
全6巻終了後、舟橋は鰻重をかき込んだ。
前夜の今夜、野坂が「ニタニタ笑ってモゴモゴ挨拶」すると、
舟橋は、季節に少し暑苦しい白のダブル、当方を認めるなり、シッシッといわんばかり、手の甲を上に振って、追い払う仕草、びっくりして離れた。
ボスには嫌われたようだが、多くの先輩作家が認めてくれた。作家になるには、大師匠を戴くか、同人誌発表、懸賞小説応募という時代。野坂は30歳越えて雑文書き。しかし、吉行淳之介が絶賛し、三島由紀夫が「世にもすさまじい小説」と評した。
吉行は彼を小説家として仲間に引き合わせた。
「君は梶山(季之)とは違う、ゆっくり書けば良い、ぼくは直木賞に推薦したのに、候補にもしないとはけしからん」。阿川(弘之)は、「あれは直木賞よりピュリッツアー賞だな」、近藤(啓太郎)「俺、吉行にいわれて推薦しようと思ってたのに葉書失くしちまった」、遠藤(周作)「君大阪? 神戸なの、どこ、灘区。ぼく六甲小学校やで」、……。
68年「火垂るの墓」と「アメリカひじき」の2作で直木賞受賞。三好徹と同時受賞。二人受賞で自分は2作、というのがすっきりしない。東大は不合格だった、レコード大賞童謡賞の時は補作者がいた。これまでのことを思い出しても、自分はトップにはなれないのか、この先何を書けばいいのか、恐怖感がわく。
新聞記者のインタビュー。
「戦後派、第三の新人と、色分けされますが、野坂さんはナニ派?」とっさに、「焼け跡闇市派とでもいうか」冗談のつもり。
丸谷がペンクラブに推薦してくれたが、拒否する人がいた。大宅壮一の「ノンフィクションの会」に梶山が推してくれたが、異を唱える人がいた。
……文壇について、狎れ合い、仲間賞め、師弟関係、相互扶助の仕組みと、貶す向きもある、群れたがる目高。一方、「群像」元編集長大久保房男は、「文士が集り」「互いに切磋琢磨」「切り結び」時に喧嘩、絶交に至る、習練修羅場が文壇、親睦会ではないと断じ、四十年(昭和)に亡くなった、高見順が最後の文士らしい。文壇の衰退を認める。
堅気の同年代の友人たちの批評は辛辣で的確。“文壇”の文芸時評を空々しく思う。
1960年代後半“文壇”史。
(平野)