■ 内山正熊 『神戸事件 明治外交の出発点』 中公新書 1983年(昭和58)2月刊
対外的にはまだ徳川幕府が外交を担当していた。維新政府まだ新政府声明をしていない。“攘夷”を継続していた。
瀧の犠牲によって得たものは何か。
著者(1918~2011)東京生まれ、当時慶應義塾大学法学部教授、国際政治外交史専攻。83年、三重県大内山村に国際学習塾「大内山塾」を自費で開き、中国人留学生を受け入れ、環境保護実学研修、日本語教育を行なった。
「神戸事件」
慶応4年(1968)1月11日、前年開港したばかりの神戸の町中で起きた日本と外国の軍事衝突事件。場所は西国街道、現在の大丸神戸店の東向かい、三宮神社前。姫路から西宮に向かう備前藩の行列を外国兵が横切ろうとした。藩兵は阻止したが、外国兵は行列に沿って歩きながら、なおも横切ろうとしたので、砲術隊長・瀧善三郎が槍で突き倒した。外国兵が短銃を行列に向けたため、瀧も鉄砲隊を呼んだが、銃士たちは発砲してしまった。騒ぎにイギリス公使ハリー・パークスは居留民保護のため兵に出動命令を出した。英仏軍が港の軍艦から上陸し、備前兵に攻撃。撃ち合いになるが、備前藩は全軍摩耶山へ引きあげた。双方に負傷者が出たが、死者はいなかった。
……列国側は、備前藩兵の追撃だけでなく、神戸中心部を占領して軍事統制下に置き、さらに会場にあった日本海側のおもだった蒸気船五隻を抑留し、そこからめぼしい財貨を奪い去ったのである。……
翌日伊藤俊介(博文)が兵庫到着、パークスと会見。
外国側は日本全体の問題として謝罪を要求。維新政府は全面的に受け入れ謝罪し、発砲命令責任者・瀧を処罰。2月9日、兵庫永福寺で瀧は切腹、外国公使も立ち会った。対外的にはまだ徳川幕府が外交を担当していた。維新政府まだ新政府声明をしていない。“攘夷”を継続していた。
その維新政府が名実ともに日本の代表政権になるためには、まず第一に内戦を鎮圧して国内を統一するだけでなく、外国から幕府に代る正統政府であるという国際承認を獲得する必要があったのである。それには、朝廷みずからが外交の場に乗り出して、その存在証明をとりつけることがぜひとも必要であった。……
事件は攘夷とか外国人襲撃というものではない。外国兵の無礼を排除し負傷させたが、発砲により死罪とされた。しかも、外国側は公使に対する発砲と主張した。
岩倉具視が備前公に手紙を書いている。先帝・孝明天皇の攘夷によく仕えてくれたが、形勢は一変し万国公法を尊重しなければならない、天朝のため、皇国のため、備前藩のため、瀧に死んでくれ……。瀧の犠牲によって得たものは何か。
……維新政府は外国公使団と接触することになり、朝廷は開国和親の新方針を列国に伝えて、従来幕府の結んだ条約を遵守するという意思を通告した。ここで維新政府は、対外的には、まず第一の関所を通過したわけであるが、対内的にも、鎖国攘夷の旗幟鮮明であった朝廷は、その旧方針を改めて、開国和親の新姿勢を明らかにすることになったのである。
……もし神戸事件が維新早々に起こらなかったならば、攘夷から開国への転換は難渋して、真の開国がおくれたにちがいない。また、この神戸事件の痛切な体験は、日本外国の基本路線を西向き一辺倒に定着させたのである。
従来の史料だけでなく、イギリスの外交文書、さらに瀧の子孫の研究書、岡山県御津町の郷土史料にも当たった。
(平野)