■ 「豹」 山本周五郎の神戸
「豹」は『人情裏長屋』新潮文庫所収。
周五郎は友人の姉の嫁ぎ先に下宿していた。
本作品では、主人公・正三が東京から兄の家に来て滞在。兄が亡くなって3度目。兄は船会社の重役だったが、赴任先のアメリカで自殺。須磨の家には嫂・純子と小さい甥、お手伝いさん。正三は純子に次第に惹かれていく。近くに須磨寺があり、須磨寺公園に電鉄会社がつくった動物園があった。そこから豹が逃げた。閑静な住宅街に不安が広がる。ある夜、純子が夫の死の真相を打ち明ける。女性問題が原因だった。正三は図書館通い(大倉山の中央図書館)を日課にしているが、本を読んでいても気持ちが動揺していた。兄は家の反対を押し切って愛する女性と結婚した。その兄が女性問題で自殺とは。
……そのほかにもいろいろ複雑な事件が絡み合ったのであろうが、ついにはそのために自分を殺してしまったという。あの生活力の旺盛な、しかし立派な紳士であった兄が――。正三は人間の奥底にひそんでいる情熱の避けがたい力強さをはっきりと身近に感じた。
書物を借出したがそれを披いてみる気力もなく、半日ぼんやり過したあとで図書館を出た正三は、足の向くままに湊川へ出て食事をしたのち、ふらっと映画館へ入った、そして猥雑な映画の動きに眼を放しながら、行く時間かを過して外へ出ると夜だった。
それでもまだ家へ向う気持にならないので、公園の闇を歩き廻ってから山手通りのほうまで行った。するとどうしたわけか、不意に嫂の声を聞きたいという慾望が、激しく正三の胸をかき乱しはじめた。まるで熱病のようだった、たった今、即座に嫂の眼に触れなければ、そのまま頭が狂ってしまうような気持だった。正三は自動車を呼び止めて須磨へ向った。
さて、豹。深夜、純子が豹を恐れて正三の部屋に来る。風の音や庭の竹ざおが倒れる音に純子が怯える。
「正三さん」
純子は低く叫びながら、左手でぎゅっと正三の手を握った。「大丈夫です」
正三はとっさに片手を純子の背へ廻した。喘ぐような純子の息吹が正三の面を蔽った。むっとする香料の匂いと、ぬれた女の唇が自分のを強く求めて動くのを感じた。
翌朝、甥っ子から前日の昼に豹が射殺されたと聞かされる。純子もそれを知っていたはず。正三は悪寒を感じる。
……射斃された獣よりも、もっともっと身近に、闇の廊下で自分の唇の上に押合わされたもののほうが、豹の正躰であったのだと知った。その日の午後、正三は須磨の家を立って東京へ帰った。
正三は「情熱の避けがたい力強さ」から逃げた。
(平野)