■ 「正体」 山本周五郎の神戸
「一種の近寄りがたさ、見透しのつかぬ模糊とした精気」
のようなものを感じる。
津川は初七日まで滞在。明日帰京すると佐知子に告げる。
津川は驚いて振返った。彼女はショオルのあいだから嬌めかしく、むしろ勝誇ったように笑っていた。
「――あれだ」(略)
「正体」は『花も刀も』新潮文庫所収。
津川の友人で、須磨月見山に住むフランス帰りの画家・杉田龍助と佐知子夫妻。かつて津川と佐知子は関係があった。津川は龍助危篤の報を受け来神。神戸駅で彼の幻を見て、間に合わなかったと思う。旅館・野村屋に入り龍助宅に電話をする。やはりその日の午前に亡くなっていた。野村屋で旧知の仲居に龍助の乱行を聞く。通夜、佐知子は休んでいて、友人・八木と話す。彼が遺作を見て遺作展を開こうと言う。佐知子を描いた作品ばかり50~60点。
……年代順に見ると初めは着衣の全身、それから半身になって、顔だけになって、さらに小品の中には眼を中心にした顔の上半だけのものが七八点に及んでいる。その次には裸体があった、全裸が五点、ことに人物八十号へ描いた一点は床に仰臥したもので、とうてい一般に展観することのできぬ猥がましい大胆なポオズである。(龍助は失敗だから破れと言っていた)
それは見れば見るほど放姿な淫卑な筆つきである、あらわにひろげられた内腿には静脈がうき、双の眼は怠惰な倦怠と溶けるような欲望との入混った不思議な赤みがさしている、右手を頭の後へ廻し、左手はくったりと床の外へ垂れている、ぬめぬめと濡れている口辺、まるみと力の籠っている腹のふくらみ、それから伸ばした左足の指が強く内側へかがめられていて、それが流れている全体の線の調子を壊していると同時に、ひどく肉感的な暗示をもっているのだ。
いったい龍助は佐知子の何を描こうとしたのか?
佐知子は悲しんでいる様子はなく、津川と再会した感動もない。「一種の近寄りがたさ、見透しのつかぬ模糊とした精気」
のようなものを感じる。
津川は初七日まで滞在。明日帰京すると佐知子に告げる。
「一日お延ばしなさい、明日の晩七時頃野村へお伺いしてよ」
と云った。津川は驚いて振返った。彼女はショオルのあいだから嬌めかしく、むしろ勝誇ったように笑っていた。
「――あれだ」(略)
津川は、龍助が佐知子の正体をつかもうとして、焦り、その結果彼女を別な女性に作り上げてしまったのだ、とわかる。津川が通夜の晩に感じた一種近寄りがたい雰囲気は、実は龍助が知らないうちに作ってしまったものだ、と。
……彼は佐知子を追求しながら事実はますます彼女から遠ざかっていたにすぎぬ。……
あの絵こそが彼女の正体をつきとめていた。しかし、龍助には決して捉えることはできなかった。
(平野)