■ 赤坂憲雄 『北のはやり歌』 筑摩選書 1500円+税
リンゴの唄 北上夜曲
北帰行 ああ上野駅
港町ブルース 浜昼顔
北国の春 津軽海峡・冬景色
俺ら東京さ行ぐだ みだれ髪
さすらい、望郷、失意の旅……戦後歌謡曲=はやり歌に歌われた「北」の精神史をたどる。
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どんなに売れっ子の作詞家や作曲家だって、はじめからはやり歌を作ることはできない。はやり歌を作るのは、あくまで大衆なのである。大衆がそれを受けとり、その物語や主題と共鳴し、それぞれの小さな物語を紡ぎはじめることによって、ようやくそれははやり歌と成り上がるのである。はやり歌は作ることができない。ただ、作られるのである。
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「リンゴの唄」(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)。
「敗戦後の焼け跡に立ち尽くす日本人に愛された」歌。
歌唱は松竹少女歌劇団の並木路子。彼女の主演映画「そよかぜ」(1945.10月)の挿入歌だった。明るい歌という印象だが……。
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「リンゴの唄」はおそらく、戦争をくぐり抜け生き残った日本人に向けての癒しの唄であり、焦土のなかから起ち上がろうとする日本人に向けての励ましの歌だった。(焼け跡、闇市、飢え、死者たち……)現実はかぎりなく苛酷だったのである。だからこそ、人びとは希望の歌をもとめていた。
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阪神・淡路大震災、東日本大震災のあと、この歌はよく歌われた。しかし、歌詞が“残酷”と感じる被災者もいた。「青い空」「二人で歌えばなおたのし~~なおなおうれし」など。
1946(昭和21)年10月なかにし礼少年は満州からの引揚船のなかでラジオから流れるこの歌を初めて聞いた。
「残酷な歌だった」
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この歌は、当時の私にとっては明るすぎたのだ。私たちがまだこうして、真っ黒な海の上にいるのに。着のみ着のまま、食うや食わず、命からがら逃げつづけた同胞が、まだ母国の土を踏んでいないのに。なぜ平気で、こんな明るい歌を歌えるんだろう。(略)仲間はずれにされたような、おいてけぼりをくったような、悲しい思いがこみあげてきて、私は泣いた。
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歌謡曲史からはずせない歌だが、今も好きとは言えない、と。健康的で前向きの雰囲気は「体制的でお仕着せの感じ」。
なかにしはサトウがこの歌のほんの数ヵ月前まで軍歌を書いていたことも指摘する。
それに「そよかぜ」は戦中の戦意高揚映画の脚本を作り変えたものだった。
歌手・並木は戦争で父母、兄、初恋の人を失った。それでも歌うことができた。
一方で路頭に迷った女たちのなかには身を売るしか生きる術のない人もいた。
「星の流れに」(清水みのる作詞、利根一郎作曲、1947年12月)。
ふたつの歌は、
「背中合わせの、戦後の女たちの歌だった」
リンゴが登場する歌は他にもある。
美空ひばりの「リンゴ追分」(小沢不二夫作詞、米山正夫作曲、1952年4月)。
民謡の調べにのせて、つらい別れを歌った。
また、ひばりは「悲しき口笛」(藤浦洸作詞、万城目正作曲、1949年)など、ずっと「戦災孤児」の歌を歌っている。
57年(昭和32)ひばり19歳、浅草の劇場で同い年の女性に塩酸をかけられる。東北から上京して働いている娘だった。東北の娘に深い心の闇があった。
しんみりした歌のなかに、コミカルな歌がひとつ。
「俺ら東京さ行ぐだ」(吉幾三作詞・作曲・歌唱、1984年)。
時代は高度成長からバブル。この歌の前年、ドラマ「おしん」があった。
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貧しい・寒い・暗い東北のイメージを逆手に取りながら、それで、なにが悪いかと、「こんな村」がことさら押し出されていったのかもしれない。開き直ったときの東北人の強靭さが、ここにはいかんなく発揮されている。
……
東北は「ケガチ」(飢餓)の風土と言われていたが、高度成長でその問題からは解放された。
この歌は「ケガチの風土への挽歌」、「高度成長から取り残された北の辺境の村々への挽歌」、「出稼ぎ労働者、村から離散していった人々に向けての挽歌」という顔を持つ。さらに、まだまだその先の戦略も込められている。
恐るべし、吉幾三!
◇ 日記 11月9日 土曜日
欲しい本がある。買えない。今月分は使い果たした。
広告やヨソサマのブログを見ても虚しい。
でもね、図書カードが降ってきた。
ありがたい、ありがたい。
(平野)