■ 渡辺京二 『近代の呪い』 平凡社新書 740円+税
第一話 近代と国民国家――自立的民衆世界が消えて
第二話 西洋化としての近代――岡倉天心は正しかったか
第三話 フランス革命再考――近代の幕はあがったのか
第四話 近代のふたつの呪い――近代とは何だったのか
つけたり 大佛次郎のふたつの魂
あとがき
人類史の視点から“近代”を見直す。
近代という時代区分。政治的にはフランス革命以後、経済的には産業革命以後と言われる。近代=資本主義社会の成立。
近年の学界では16世紀西洋列強国によるプランテーション農業と奴隷制が結びついた環大西洋経済成立を資本主義成立と見るそうだが、本書では18世紀末から19世紀初頭の「近代」の特徴について考える。
では、近代とは?
「国民国家の創出」
ヨーロッパではナポレオン戦争による「国民兵」。国民と国民が戦争によって対立すること。
経済的にも世界経済を掌握するための国民を統合する強力な国家が必要。植民地覇権はスペイン、オランダ、イギリスと推移していった。
日本でも、「先覚者」が直面したのは世界経済覇権。
「ぼやぼやしていたら、冷飯どころか植民地にされてしまうかもしれない」
近代知識人は「国民国家創造」のために民衆を改造する。
幕末、民衆生活レベルで「打ちこわし」はあったが、外国船来襲に対する幕府の態度を「弱腰」とする暴動はなかったし、維新は「佐幕と勤王の啀みあい」、西南戦争は「天朝さんと西郷さんの喧嘩」という程度の関心。ところが、日清戦争後の講和に不満で暴動が起きたし、日露戦争に熱狂した。
……
幕末の民衆社会の成員が、いわゆる国家的大事について、オラ知らねえという態度がとれたのは、民衆社会が国家的次元の出来事に左右されない強固な自立性を備えていたからで、民衆社会の内部では、人びとは自分たちの問題と主体的に取り組んでいて、オラ知らねえなんて態度はとっていなかったのです。これは実は健全な事態だったのだと思います。
……
国民ひとりひとりが国政や外交に知識や意見を持つ、論客となる、という事態はメディアに煽動されポピュリズム政治の恐れがある、と。
国際競争時代に「国家なんて……」という態度は成り立たないが、では国民ひとりひとりが国家意識に目覚めて国の舵取りをするというのは健全なのか?
渡辺は「不健全」と言う。
……
私たちの一生のうちに遭遇する大事な問題は、何も国家とか国政とかに関わる性質のものではありません。そんなものと関係ないのが人間の幸福あるいは不幸の実質です。また私たちはまったくの個人として生きるのではなく、他者たちとともに生きるのですから、その他者たちとの生活上の関係こそ、人生で最も重要なことがらです。そして、そういう関係は本来、自分が仲間たちとともに作り出してゆくはずのものです。
近代というのは、そういう人間の能力を徐々に喪わせてゆく時代だったのではないでしょうか。
……
知識人の責任も大きい。
人権・平等・自由という価値について、「近代がもたらした人間への贈り物」だが、渡辺は「かなり疑わしく、問題をはらんだ贈り物」と言う。
たとえば、フランス革命では人権と自由が抑圧されたし、ナチス、軍国主義、社会主義国家による自由抑圧があった。
近代の「恩恵」がひとつだけある。「衣食住の豊かさ」。
もちろん今も「貧困」「格差」はある。それでも近代以前の「貧しさ」は乗り越えている。
そうは言っても、私たちはふたつの“呪い”を背負いこんでいる。
(1)
世界経済での競争激化による民族国家の拘束力強化。ナショナリズムの復活。
(2)
世界の人工化。大量生産・消費による自然の資源化とか環境保全ということだけではなく、豊かさを追求するあまり自然環境からさえも切り離して科学的技術によって人工的空間を作る――自然との交感を切る。
……
私は世界がナショナリズムの方向へ再び向おうとするのが不愉快です。また、便器に近づくと蓋が自動的にあがるといった便益に意味があるとは思いません。私のいうふたつの呪いは、いずれもわれわれが消費社会のゆたかさ、生活の快適と便利を実現できたことの代償でもあるのです。
……
生活の豊かさとか、経済成長とか、考え直すことがいっぱいある。「喰ってゆく」ことが大切だけれど、“そこそこ”というのも難しい。
ただこのままでは土地に根ざした共同社会・人間関係は破壊されていくのでしょう。◇ 日記 11月5日 火曜日
午前、年金事務所。住民票コードがなんたらかんたらで届け直し。
午後、児童T、海事ゴットとお茶。近況報告。
誰が何をしゃべったとは書けないけど、霊験あらたかな神社にお詣りして宝くじ買ったという“一攫千金”熱望者あり。
夕方お江戸から宅急便着、洗濯物と買った本。写真。
紹介は後日。古本もあり。
(平野)